中大兄の呼びかけによって、朝廷の重臣たちは大多数が行を共にした。
ある朝、帝が目覚めてみると、臣下がいなくなっていた。
「これ、誰かおらぬか」
帝は衣服を着替えることもできずに、寝所を出て殿舎の中をさ迷い歩いた。
「誰かおらぬのか」
帝の声は、長い廊下に空しく響くだけであった。
へなへなと腰砕けて、床に手をついた帝は、めまいを覚えた。
(この屈辱、耐えられぬ)
帝は思った。
これほどの屈辱があろうか。
怒りもある。
憎悪もある。
しかし、何よりも屈辱感が、帝の神経を切り刻んでいた。自分は朝廷の百官や舎人たちにも見捨てられたのである。
そのうえ、后にすら——。
立ち上がる気力すら失せていた。
そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。
「父上——」
駆け寄ってくる足音と共に、若々しい声が聞こえた。
帝は顔を上げた。
「おお、有間《ありま》ではないか」
息子の有間皇子の顔がそこにあった。
「さあ、お手を」
息子のさしのべる手に、帝はようやくすがった。
「参りましょう」
「どこへ行く?」
「わが館へ」
「いや、それはならぬ」
帝は首を振った。
「朕《ちん》はこの国を統《す》べる者じゃ。それが、この宮殿を離れるわけにはいかぬ」
「わかりました」
有間はうなずいて、
「では、わたくしの館より、身の回りのお世話をする者を差し向けましょう」
「いや」
帝は首を振った。
「——?」
有間は、その真意を測りかねた。
「それよりも、そなたがここへ移って参るのがよい」
「それでは、あまりに——」
「いや、遠慮するでない。——そなたは、朕の実の息子ではないか」
「はい」
有間は思わず返事をした。
背は高く肌は白く、女のような優しい手をしている。
しかし、その柔和な表情とは裏腹に、なかなか性根のすわった青年であることを、帝は気付いていた。
「中大兄などを皇太子《ひつぎのみこ》にしたのが、まちがいであった」
帝は息子の肩に手をかけて言った。
有間はびくっと肩をふるわせた。
「そなたを皇太子にしよう」
「——」
「どうした、嬉しゅうはないのか?」
「は、はい」
有間は心の中では、こう考えていた。
(いま皇太子など、うかつに受けては危ない。あの中大兄が黙っているはずがないからな)
皇太子になるということは、中大兄の地位を奪うということだ。
それが、この際、最も危険な賭けであることを、有間は知っていた。
「さあ、父上、お休みになるのがよいでしょう」
有間は、帝を抱きかかえるようにして、寝所に連れていった。
そして、父を休ませると従者を呼んで、とりあえず身の回りの世話をする者を、館から呼び寄せることにした。
まだ、ここに住む決心がつかなかった。
(中大兄の疑いを避ける工夫をしない限り、ここには住むこともかなわぬ)
有間はそれを考えねばならなかった。