中大兄は不快感を露わにして言った。
「なぜです」
前帝《さきのみかど》である母は不審の表情を見せた。
「言うまでもありません。あの者は、異国《とつくに》の血を引いております」
漢殿《あやどの》を皇族に列するか、という問題である。
難波の都を捨てるにあたって、中大兄は母に懇願した。
母は中大兄には甘い。その願いなら大方のことは聞き届ける。
今回のことは、言わば大きな貸しである。
それがあるから、母は再び漢殿のことを持ち出したのである。
しかし、にべもなく拒否された。
母はむっとして、
「そなたはそう言うが、これは皇后の願いでもあるのですよ」
娘であり、中大兄の妹でもある間人皇后は、あの一件以来、漢殿の味方だった。
だが、中大兄はそのこと自体面白くない。
「だめです」
中大兄は意固地になった。
あとは母がいくら説得しても、中大兄は首を縦に振らなかった。
大きな溜息をついて、ついに母はあきらめた。
「わかりました。では、その件は無かったことにしましょう」
「ありがとうございます」
「では、聞きますが、肝心なことはどうします」
母は改めて厳しい視線を中大兄に向けた。
「肝心のことと申しますと?」
「決まっているでしょう。都が二つに分かれ、帝が有名無実のものとなった。このまま放っておくのですか」
「それは——」
「異国の使者も困るでしょうね。どちらへ使いを送るべきか。難波か、それともこの飛鳥か」
「飛鳥です。決まっている」
中大兄は叫んだ。
母はたしなめるように、
「難波には帝がいるのですよ、力がないとはいえ、帝は帝です」
「——」
「もし、帝が、われらをこころよく思っていない者共と結んだら、厄介なことになります。この国は二つに割れる」
「そんな者共がおりましょうか」
中大兄は楽観していた。
もし、そんな連中がいるなら、難波の帝のもとには、もっと大勢の家臣が残ったはずだ。
「いや」
母は首を振った。
「人には、面従腹背ということがあるのですよ。そなたも、この国の天津日継《あまつひつぎ》となる身なら、こういう言葉ぐらい知っておきなさい」
「面従腹背——」
母は意外に唐《から》の国の言葉を知っている。それは漢殿の父である新羅の王族から学んだものだろう。
そう思うと、中大兄はその忠告を率直な気持で聞く気になれなかった。
「とにかく、何か方策を考えなさい。このままではいけません」
母は最後に念を押した。