中大兄は帰途、それを考えた。
殺すこと自体は、そんなに難しくない。
なにしろ、こちらには漢殿という切り札がある。
臣下の大半を失い、手足をもがれた形の帝を倒すのは、わけないだろう。
問題はその影響だ。
それをすれば、たとえ実行者が誰であっても、中大兄の差し金だと誰もが思うだろう。そう思われることは、決してこれからのためにならない。
実行すべきか、それとも待つべきか。
だが、待つといっても、何を待つのか。
帝の自然死か。
しかし、それなら、この変則状態は当分続くということになる。
それは絶対に認められないことだ。
(やはり、その手しかないか——)
ふと、間人の顔が浮かんだ。
仮にも、一度は夫として仕えた帝が殺されたら、彼女は何と思うだろう。
(やはり手を下した者を憎むか)
そこまで考えて、中大兄はむしろ積極的な気分になった。
漢殿にやらせればいい。
間人は漢殿を憎むようになるだろう。
中大兄にとって、それはもっけの幸いである。
「よし」
中大兄は思わず声を出して自分を励ますように、漢殿の館に向かった。
「それはなりませぬ」
話を聞いた漢殿は、顔を蒼くして反対した。
「なぜだ。そなたほどの男が尻込みするか」
中大兄は挑発するように言った。
かつての館である。
飛鳥の郊外の道筋から少し離れたところにあり、難波の館と違って山々が連なるのが見える。
その館の中で、父の異なる兄弟は向い合わせに座っていた。
人払いがされ、部屋の中には他に誰もいない。
「いえ、恐いのではありません。確かに仰せの通り、今の難波は丸裸も同然。その気になれば、たやすくお命を縮め参らすことができましょう」
「ならば、なぜできぬ」
「兄君、仮にも相手は帝、これは弑逆の大罪となりまする」
「わかっておる」
中大兄はじれったそうにうなずいた。
「ならば、おとどまり下さいませ。弑逆の大罪を画策した者が、帝位に即《つ》くなどできぬことでございましょう」
漢殿は強く言った。
中大兄はにらみ返して、
「そなたは、このわしの命令が聞けぬというか」
「他のこととは違いまする。これは、あなた様の御名にも大きな傷となりまする。しかも、臣下の身で帝を討つなど本邦始まって以来のこと」
「いや、例はある」
うめくように中大兄は言った。それは本当だ。
かつて蘇我馬子《そがのうまこ》が、崇峻《すしゆん》帝を殺害させたことがあるではないか。
「その蘇我の一族はどうなりました?」
漢殿は今度は静かに言った。
「——」
中大兄は黙った。
言うまでもない。彼等は滅亡した。
いや、中大兄自身が滅ぼしたのではなかったのか。
「おわかりでございましょう」
「いや」
中大兄は首を振った。
「あれは臣下のやったこと。それゆえ滅びたのだ。だが、われは皇族。立場が違う」
「それゆえ、申し上げているのでございます」
「なんだと」
「帝と皇太子とは、親と子。子が親を殺して国家というものが立ちゆくものか、ここはよくお考え下さい」
「うるさい」
中大兄は立ち上がった。漢殿はまぶしげにそちらを見た。
中大兄は漢殿を指さして、
「そなたに命ずる。今より十日のうちに、帝の命を絶《た》て。これは皇太子としての命令だ」
「——」
「わかったな」
「——わかりました」
漢殿はそう答えざるを得なかった。
中大兄は笑みを浮かべた。
「頼むぞ、吉報を待っておる」
中大兄はそう言い捨てて去った。
ほとんど入れ違いに、額田が入ってきた。
「あなた」
顔が真っ青だった。
「聞いておったのか」
漢殿は優しく言った。咎めるような口調ではなかった。
「はい」
「そうか」
「おやめ下さい」
額田は叫んだ。
「——」
「こればかりは聞いてはなりませぬ。いかに皇太子様の御命令とはいえ」
「だが、他にどうしようもあるまい」
漢殿は言った。
体中に、重い荷を背負ったような、不快感があった。