漢殿はついに難波宮まで来てしまった時、そのことを思った。
もう、何度同じことを自問自答したことだろう。
兄の中大兄は、帝を消せという。
だが、いかなる理由にもせよ、帝を殺すなどということは罪の中の罪、まさしく大逆である。
大逆の罪は、いかなることがあっても、償うことはできない。
(どうすべきだ)
結論はもう出ている。
帝のおわす難波の宮に、もう来てしまったのだ。
日中というのに空は暗い。
いまにも雪が降ってきそうな鉛色をしている。
漢殿は馬を降りた。
これ以上は歩いて行くしかない。
「——お供致します」
背後から声がした。
振り向くまでもない。虫麻呂である。
「来るな、と言ったはずだぞ」
「——」
「これはわたし一人でやることだ」
漢殿は槍をしごいた。
「なぜ、夜を待たれませぬ?」
虫麻呂はけげんな顔をした。
「こそこそとしたことは、もう嫌なのだ」
吐き捨てるように漢殿は言った。
「御主人様——」
虫麻呂は、どう言うべきかよくわからなかった。
こんな昼日中から宮殿に行けば、誰の仕業か一目瞭然ではないか。
そのうえ、帝の周囲には、いくらなんでも数人の舎人《とねり》がいるはずだ。
その舎人とも争いになる。
数については心配していない。長槍の名手である漢殿が、万が一にも舎人風情に遅れを取るはずはない。
しかし、多くの人間を殺せば、それだけ多くの家族の恨みを買う。
そういうことは避けるのが賢明ではないのか。
「いいのだ」
漢殿はまるで簡単な用事を済ませに行くように、すたすたと宮殿へ向かった。
槍を持っているところだけが、日常と違う。
その時突然、漢殿の眼前に、奇妙な男が立ち塞《ふさ》がった。
「何者だ?」
漢殿は誰何《すいか》した。
長身の漢殿に、まさるとも劣らぬ大男であった。
不思議な異国風の衣裳を身につけているが、顔は藁《わら》を編んだ大笠で隠されていて、わからない。
漢殿が緊張したのは、顔がわからないこともさりながら、右手に手槍を持っていたからだ。槍という武器の使い手は、まずいない。
矛《ほこ》なら、いくらもいる。兵士が持つのも矛である。
しかし、漢殿は槍の方を得意とした。
どちらかといえば、前後左右どういう形でも相手に傷を負わせられる矛の方が有利である。
だから漢殿は、これまで槍を使う敵を相手にしたことがない。
ここに至って、はじめてそんな敵が出現した。
「何者だ?」
笠の男が答えないので、漢殿はもう一度言った。
男はそれには答えず、
「このまま帰れ」
と、言い返した。
「帝のお付きの者か?」
「そうではない」
男は首を振って、
「だが、そなたの心の内にあることは、行なってはならぬ」
「——」
「わかっておろうが、それは臣下の身として許されないことだぞ」
「どけ」
漢殿は槍をかまえて威嚇した。
男は口元に微笑を浮かべて、
「ほう、やるというのか。面白い。そなたの技を見よう」
笠の男は一歩下がった。
(殺すまでのことはない)
漢殿は思った。
こちらの長槍に比べて、相手は短い手槍である。
(得物をはねとばしてくれる)
漢殿は槍の長さを生かして、笠の男の手を打とうとした。
手を打って取り落とさせ、手槍そのものもはねとばそうという作戦である。
他愛もなくうまくいくはずだった。
ところが、次の瞬間——。
槍をはねとばされていたのは、漢殿の方だった。
漢殿は驚愕した。
槍をとって今まで一度も敵に敗北したことはない。
それが、まるで赤子の手をひねるように、やられた。
しかも男は素早く漢殿の前へ出て、首根のところに槍を突きつけた。
「——そなたの負けだな」
笠の男は言った。
誇るでもなく笑うでもなく、重い押しつけるような声だった。
「殺せ」
漢殿は言った。
死にたくはなかったが、こうなってはどうしようもない。
「このまま帰るなら、命は助ける」
「——」
「二度と帝に手を出すな、わかったか」
笠の男の言葉に、漢殿は反抗の眼を向けた。
その時、初めて下から覗く形で、笠の内が見えた。
眉も鬚《ひげ》も薄い。面長の男である。
その細い眼に殺気はなかった。
漢殿が返事をしないでいると、笠の男は槍を引いた。
漢殿はいぶかしげに男を見た。
「そなたは負けたのだ。武人なら武人らしく潔く負けを認めたらどうだ」
「——わかった」
漢殿はうなずいた。
笠の男はきびすを返した。
「待て、名を名乗れ」
「——名など無い。わしは帰る国も身よりもない者でな」
男は振り返らずそう言って、そのまま去って行った。
漢殿は地面に落ちた槍を拾い上げると、右の手首をあらためて見た。
青く腫《は》れ上がっている。痛みもある。
恐ろしい迅業《はやわざ》であった。
ふと、漢殿は虫麻呂の様子が尋常でないのに気が付いた。
「どうした?」
思わず声をかけた。
虫麻呂は呆然と男の去った方を見ていた。
(そういえば、こやつ、何をしていたのだ)
漢殿は珍しく不満を感じた。
考えてみれば、自分があれほどの危機に陥った時、虫麻呂は何もしなかったのである。そういう時は主人を助けるのが虫麻呂の役目ではないか。現に虫麻呂はこれまでは必ずそうしていたのである。
だが、虫麻呂は相変らず放心したように、男の去った方角を見ていた。
漢殿が声をかけたにもかかわらずである。
こんなことは、これまでに一度もなかった。
「どうしたのだ、虫麻呂」
漢殿は大声を出した。
その声にはっとした虫麻呂は、あわててその場に膝をついた。
「はっ、申しわけございませぬ」
「一体、どうしたというのだ?」
「いえ、なんでもござりませぬ」
「なんでもないはずがあるか」
漢殿は怒鳴りつけた。
「お許し下さりませ。虫麻呂一生の不覚でございました」
漢殿はわけがわからなかった。だが、そのうちにはっと気付いた。
「——おまえは、あの笠の男を知っているな」
「いえ、滅相もない」
虫麻呂はあわてて否定した。
しかし、その表情を見て、漢殿はそれが嘘だと確信した。
「申せ。あれは何者だ?」
「いえ、その——」
「はっきり申せ。それとも主人の言うことが聞けぬと申すのか」
「わたくしも、確かにそうだとは言い切れぬのでございます。なにしろ面体をお隠しになっておられましたし、もうお別れして三十年近くになるのですから」
「だから、誰だ?」
「は、はい。もしや大殿《おおとの》様ではなかったかと——」
「なに」
漢殿はあわてて笠の男の去った方角を見た。
既に男の姿は宮門の中に消えている。
(父上が、まさか)
漢殿は槍を握りしめていた。