中大兄は漢殿を怒鳴りつけた。
飛鳥の宮中である。
しかし、人払いがされており、他には誰もいない。
「申しわけもございません」
「そちほどの手練《てだれ》が、何故敗れた?」
「敵の側に、わたくし以上の使い手がおったのでございます」
「そなた以上の?」
さすがに中大兄は顔色を変えた。
「何者だ?」
「——わかりませぬ」
「名は名乗らんだのか?」
「名は無いと申しました」
漢殿は、とりあえずそう答えた。
「ふざけたことを」
中大兄は怒っていたが、ふと思い出したように、
「敗れたということは、手傷を負ったのか?」
漢殿はそれを聞いて嬉しかった。
初めて中大兄が自分の体を気づかってくれたのだ。
「いえ、右手首をしたたかに打たれましたが、ただの打ち身でございます。すぐに治りましょう」
「ならば、行け」
中大兄は冷酷に言った。
漢殿ははっとした。
(そうか、手傷のことを聞いたのは、わたしの体を気づかってのことではない。再び動けるかどうかを確かめたかっただけなのだ)
「お断わりします」
「なに、断わるだと」
「はい」
漢殿は断固として言った。
中大兄もその気迫に押されまいと、
「皇太子の命令に従えぬと申すのか」
「やはり、臣下として、従えることと従えぬことがございます。それに——」
「それに?」
「武人としての約束がございます」
と、漢殿は例の笠の男との約束を話した。
中大兄は怒った。
「そちは、私事の盟約を、公けの命令より重んじると申すか」
「そうは申しておりません」
「言っておるではないか、この不埒者《ふらちもの》」
「公けのものと仰せられるなら、正式な命令書を出して頂きたいと存じます」
漢殿の言葉に、中大兄はぐっとつまった。
なにしろ、仮にも相手は天皇だ。その天皇を殺せなどという正式な命令書など、出せるわけがない。
「命令書をお出しになるなら、わたくしも行かざるを得ません。その時はぜひ御連絡願いたいもので——」
漢殿はそれを捨て台詞にすると、その場を去った。
(おのれ、いまに見ておれ)
中大兄は怒り狂ったが、どうすることもできなかった。
漢殿はその足で、母の帝のところへ行き、拝謁を願い出た。
「漢《あや》の者が?」
母は驚いた。
無位無官のままの漢殿は、正式に帝に会うことは許されていない。
しかし、なんといっても親子なのだから、そこは内密に会おうと思えば可能だった。
それなのに漢殿は、遠慮しているのか、一度もそうしたことはない。母の方から呼び出さぬ限り、決してやって来ないのである。
「どうしました」
母はたずねた。むろん、彼女は、中大兄が帝の暗殺を命じたことなど知らない。
漢殿は沈痛な面持ちであった。
本当は、こういうことはしたくない。
しかし、しなければならない。それは自分の窮地を逃れるためではない。父のことを母から聞いておきたいからだ。
「わたくし、先日、ある武人と立ち合いました」
「——」
「見事な技を持っていました。私が一合《ひとあわせ》も打ち合わせることなく、槍をはたき落とされたのでございます」
母は、はっとして、頭を上げた。
「そなたはどうして、その武人と立ち合うことになったのです?」
「——」
「難波の宮ですね。あなたは難波の宮へ行きましたね?」
「行きました」
「何のためです?」
「それは、申し上げたくありません」
漢殿は、いざとなると、そのことを告げることができなかった。
「わかりました。あなたは、帝を亡き者にしようとしたのでしょう」
「——」
漢殿は抗弁しなかった。
「皇太子が命じたのですね?」
母は漢殿の目をのぞき込むようにして言った。
「——答えたくありません」
少し前なら、そういう言い方はしなかったろう。しかし、漢殿は中大兄の冷酷な態度が腹に据えかねていた。
「まったく、なんということ」
母は天を仰いだ。
漢殿は黙って母を見守っていた。
「何を考えているのでしょう。皇太子の身で帝を討たせるなど、まさに言語道断。この国の秩序が根本から崩れてしまいます。あの子はどうしてそれがわからないのか——」
母はなおも愚痴をもらした。
漢殿は、もはやそんなことはどうでもよかった。それより聞きたいことがある。
「わたくしがおうかがいしたいのは、その武人のことです」
「それが一体どうしたというのです」
母はけげんな顔をした。
「かの者は、武芸の達人です。槍をよく使い、大笠をかぶった壮年の男——何かお心当りはございませぬか」
母の顔色が明らかに変った。
漢殿は勢い込んだ。
「ございますのか」
「笠と申したか?」
母は逆にたずねた。
「はい」
「笠、それに槍。まさか、あのお方が——」
母は語尾をのみ込んだ。
「やはり、そうなのですね。あれは、わが父——」
「お待ちなさい」
母はぴしゃりと言った。
「——それ以上、言葉を口にしてはなりません」
「——」
「よいか、その大笠の男のことは忘れるのです」
「しかし、それは——」
「忘れなさい!」
母は厳しく命じた。
漢殿は口を閉じざるを得なかった。
「——わかりました。これにておいとま致しまする」
漢殿は去った。
母は、その場に突っ伏した。
嗚咽の声がした。