初めは軽い病いのように見えたが、日がたつにつれて段々と重くなり、ついには床から身を起こすのも困難になった。
百済人の医者が呼ばれて、病状を診断することになった。
「気鬱《きうつ》の病いでござる」
医者は断じた。
「気鬱とは?」
息子の有間皇子がたずねた。
「心をふさぐことがございます。それが体の働きを弱めているのでございましょう」
「その心をふさぐこととは、何だ?」
「わかりませぬ。それは、身近に仕えておいでの方がおわかりでございましょう。御不満、御不快、その他もろもろのことでござる」
医者の言に、有間は怒った。
医者に怒ったのではない。何が病いの原因なのか、はっきりとわかったからだ。
(中大兄め)
憎しみは中大兄に向けられていた。
あの男こそ、この国で帝に対して最も不忠なる者、大逆臣ではないか。
その大逆臣が飛鳥の地で多くの廷臣にかしずかれ、一方、本来この国を治めているはずの帝の周囲には誰もいない。そんな馬鹿なことがあっていいものだろうか。
有間皇子は憤然として庭へ出た。
この頃は、手入れする者もなく荒れている。
「皇子様」
声をかけられて、有間はそちらを振り返った。
ひょろりとした、面長の男がその場に跪《ひざまず》いていた。
有間はその顔に記憶があった。
「赤兄《あかえ》ではないか」
「はい」
蘇我赤兄、先年謀反の疑いをかけられ憤死した右大臣石川麻呂の弟である。
「何をしに参った?」
有間は言った。
咎《とが》めているのではない。そもそも訪ねて来る者すら珍しいのだ。
「——皇子様、わたくしは今の御政道が納得いきませぬ」
「ほう」
「帝をないがしろにする皇太子様のやり方は、人倫の大本を踏みにじるものです」
(本心か?)
有間は疑っていた。
うっかり相槌をうって、それを口実に罰せられてはたまらない。
「お疑いか」
赤兄は、突然はらはらと落涙した。
「ああ、情けなや。わが兄、石川麻呂は何の罪もないのに皇太子に殺されたのでござる。兄はいかに無念であったことでございましょう」
「——」
「皇子様、わたくしは、兄の仇を討ちとうございます。何卒、皇子様の臣としてお仕え申すことをお許し下さいませ」
赤兄は目を泣き腫らしながら言った。
「わかった、疑って済まぬことをした」
有間は身をかがめ、赤兄の手を取った。
「志は一つだ。この国の歪みを正し、逆臣を討つ。そなたを同志として迎えるぞ」
「勿体なきお言葉」
赤兄はうつむいて、また涙をこぼした。