漢殿は野原で一人、槍の稽古をしていた。
あの笠の武人と立ち合うことによって、おのが技の隙を教えられたのである。
これまで自分の技に対抗しうる敵というものに、遭遇したことはなかった。
それが知らず知らずのうちに自分の技を衰えさせていたのだ。
(未熟者め)
一合も打ち合わずに、槍を叩き落とされるというのは大きな屈辱である。
しかし、その屈辱が、漢殿の精進を支えていた。
ふと人の気配がした。
「何者だ?」
誰何すると、木陰から鎌子《かまこ》が現われた。
「そなたか」
漢殿は槍をおろし、汗を拭いた。
「いつもながらお見事な技でございます」
「何が見事なものか」
漢殿は吐き捨てた。
そして、ふと気がつくと、
「そなた、地獄耳という噂だな」
「いえ、とんでもございませぬ」
「嘘を申せ。宮中のことなら知らぬことはないと聞いたぞ」
「ははは、口さがない者の噂でございます」
鎌子は一笑に付した。
「わが父のことを知らぬか?」
漢殿は単刀直入に聞いた。
鎌子の耳がぴくりと動いた。
「——」
「どうした、知らぬのか」
「困りましたな」
「なぜ、困る?」
「噂ならば知っておりまする。しかし、本当かどうかは」
「かまわぬ、それを聞かせてくれ」
「それはできませぬ」
「なぜだ」
漢殿は気色ばんだ。
鎌子は落ちついていた。
「これは前帝《さきのみかど》の御名誉にもかかわること。滅多に口にすべきものではございません」
「——」
漢殿は鎌子を無言のまま、にらみつけた。
鎌子は破顔して、
「海の向うの国の話でございます」
「——?」
突然何を言い出すのか、漢殿は不審げな顔をした。
「そこに別の国から、人質として王の一族の貴公子がやって参りました。その貴公子は、宮廷の皇女と恋に落ちたのでございます」
「——それは父上と母上のことか?」
うめくように問う漢殿に対し、鎌子は首を振った。
「とは申しません。申しませんが——この話まだお聞きになりますか?」
「聞こう」
「お二人の間には月満ちて、一人の男の子が生まれました。しかし、これはお二人の将来に暗雲をもたらしたのでございます」
「——」
「もしも、その御子が、その国の王家の一員とされるなら、その王家に異国《とつくに》の血が混じることになりまする」
「混じってもよいではないか」
「それは、なりませぬ。しかし、その異国というのが、皇女様の国とは極めて仲が悪かったのでございます」
「——」
「お二人は夫婦となることはできませぬ。御子の母は、その子を手放させられ、その代りに王族としての地位を保たれました。御子の父は故国には戻らず、かといってこの国に仕えることもならず、世を捨てられたのでございます」
「なぜだ。国へ帰ればよいではないか」
「確かに。されど、あなた様の、いえ、御子の父上は、そうはなさらなかったのでございます。それは、おそらく——」
「何だ?」
「いや、それは、憶測でございますが——」
「かまわぬ、申してみよ」
「愛《いと》しさゆえに、この国を離れがたかったのではございますまいか」
漢殿は長年の疑問が、霧が晴れていくように消えていったと感じた。
「その男、いやわが父の名は何というのだ?」
たまらずに漢殿は、それを聞いた。
「存じませぬ」
「知らぬはずがあるか」
「もし、存じておりましても、あくまで噂ゆえ答えられませぬ。御自身でお聞きになるのが、よろしかろうと存じます」
「知っているのか、わが父の居場所を」
「存じませぬ」
「嘘を申すな」
「これは嘘ではございません」
鎌子は頭を下げて、
「あの御方は風のように神出鬼没でございます。遁甲術《とんこうじゆつ》の名手でございますからな」
遁甲術——それは忍びの技である。
漢殿はそれを虫麻呂に習った。
虫麻呂には誰が教えたのか。
(父上に違いない)
漢殿は確信した。
鎌子はそのまま立っていた。
漢殿は気付いた。
鎌子は何か別の用事があって来たのに違いない。
漢殿は、それをたずねた。
「凶々《まがまが》しき知らせにございます。しかし——」
と、鎌子は表情を変えて、
「あなた様には、吉報と申すべきかもしれませぬ」
「一体、何事だ?」
漢殿は、けげんな顔をした。
鎌子は淡々とした口調で言った。
「昨日、帝が難波の宮にて崩御なさいました」
漢殿は驚いて鎌子を見つめた。