漢殿は全身の力が一気にゆるんでいくのを感じていた。
鎌子は黙って見つめている。
(もう、悩まずとも済むのだ。これで大手を振って、太陽の下を歩ける)
漢殿はほっとしていた。
人の死、それも帝の死を喜んではいけないのだが、どうしても嬉しさがこみ上げてくるのだ。
(よろしゅうございましたな)
鎌子も、その言葉を口にするのは憚られたが、心の中ではそう思っていた。
ひとしきり沈黙が続いた後、漢殿はぽつりと言った。
「兄君は、これから、どうされるのであろうな」
鎌子は答えなかった。
その兄、中大兄《なかのおおえ》皇子は、漢殿よりもさらに浮き浮きとした気持ちを押さえ切れなかった。
目の上の瘤《こぶ》ともいうべき邪魔者が死んだのだ。
(これで、晴れて皇位に即ける)
中大兄は、いったんはそう思ったが、冷静になって思い直した。
このまま天皇になれば、人は必ず中大兄の悪口を言うだろう。確かに帝は病死だが、帝を都に置き去りにするという前代未聞の手段で、その原因を作ったのは、中大兄自身なのである。
しかも、そのきっかけは、皇后との密通の露見である。このままでは世間の同情は亡くなった帝に集まり、中大兄が即位すれば、その同情が憎しみへと転化するだろう。
(まずい)
それはいかにもまずい。
かといって、他の者に皇位を渡すことはできない。
中大兄は皇太子である。亡き帝とは叔父・甥の関係だが、形の上では親子である。
いま別の者に皇位を譲って、自分がそのまま皇太子にとどまることは極めて難しい。皇位は皇太子が継ぐべきものであるし、もしそれができないなら、新帝が即位すると同時に、身を引くべきなのだ。
中大兄は困惑した。
そして、腹も立てた。
帝が死ねば、こうなることは予測がついた。それなのに、そのことにまったく気が付かなかった自分の間抜けさ加減に腹が立ったのである。
もし、自分が皇位を継がなかった場合、候補者は他にいるのか?
一人いる。
亡き帝の忘れ形見の有間《ありま》皇子である。
だが、この若い皇子に皇位を渡すことだけは、避けなければならなかった。
悶死に追い込まれた父のことで、自分を恨んでいるだろう。しかも有間の母|小足媛《おたらしひめ》は、見せしめのために殺した左大臣阿倍内麻呂の娘である。
有間にとってみれば、中大兄は、父と祖父の仇ということになる。
そんな有間を皇位に即けることは、極めて危険だ。有間は必ず復讐しようとするだろう。帝の悲業の死に同情する者が、有間の味方につくかもしれない。
中大兄はどうしてよいかわからず、宮廷の前庭で一人立ちつくしていた。
そこへ鎌子がやってきた。
中大兄の顔は輝いた。
こういう時は、鎌子の知恵を借りるのが一番いい。
「——どうする、鎌子」
中大兄は説明も何もせず、いきなり言った。
鎌子は勘よく悟って、すぐに頭を下げた。
「重祚して頂くことですな」
「ちょうそ?」
中大兄は聞き慣れぬ言葉に、説明を求めるように、まじまじと鎌子を見た。
「一度、帝の座を譲った御方が再び位に即くことでございます」
「何、それでは母上に?」
中大兄は、この大胆不敵な策に驚いた。
そんなことを考えつくのも、棄都を初めて唱えた鎌子こそであろう。
しかし、いかに鎌子の献策が見事であろうが、それを実行させるにあたっては、母の帝を説得しなければならない。それが出来なければ何事も始まらない。
(ははあ、こいつ、その事を頼みに来たか)
中大兄はそれを察した。