母の帝は言った。
心底から呆れた表情である。
ここが宮殿内でなかったら、母の帝はもっと大きな声で叫んでいたかもしれない。
「お願い出来ますか」
蛙の面《つら》に水といった様子で、中大兄は言った。
母の帝はうなずいて、
「わかりました。それほど言うなら、もう一度、玉座についてもよい。ただし、条件がありますぞ」
「何なりと仰せください」
安心し、そう言った中大兄の顔が、次の瞬間大きくゆがんだ。
母の帝はこう言ったのである。
「漢《あや》の者を、皇族に列しなさい」
「なりませぬ」
中大兄はすぐに叫んだ。
「なぜです」
「知れたこと。申すまでもありません」
「わかりませんね。どうしてなのか理由《わけ》を言いなさい」
母の帝はあくまでとぼけた。
中大兄は怒って、
「あの者は異国《とつくに》の血を引く者ではありませんか、そのような者を皇族として迎え入れることなど出来ませぬ」
「はて、ならば、皇太子の身にて、帝のお命を狙うことも許されぬのではないか」
「——」
「どうだえ?」
「母上、それとこれとは——」
中大兄は抗議した。そもそも事柄の性質がまったく違うことではないのか。
「いいえ」
母の帝は今度は頑《かたくな》なまでに抵抗した。
「おまえが、どうしても認めないと言うのなら、勝手におし。帝でも何にでもなるがいい」
「それは出来ません。それが出来るくらいなら初めからお頼みは致しません」
「ならば、言うことを聞きなさい」
「——」
「それとも、有間に位を譲ろうか」
「滅相もない」
中大兄はあわてて叫んだ。
そんなことをされたら、下手をすると身の破滅だ。
「さあ、言うことを聞きなさい。たまには親孝行するものですよ」
「——」
「もう一度言います。これが最後ですよ。漢の者を皇族として迎え入れなさい。それが嫌なら、私は有間に位を譲ります」
中大兄は唇を噛みしめた。
だが、ここまで追い込まれては止むを得ない。
「——わかりました。仰せに従いましょう」
「おお、わかってくれたかえ」
「されど、一つだけ、条件があります」
「条件とは?」
「かの者を皇子《みこ》と呼ぶのは構いませぬが、皇位に即くことは許さぬと、母上じきじきにさとして頂きます」
「——」
「いかが」
「わかりました」
母の帝は大きくうなずいて、
「では、こちらにもまた条件が一つあります」
「何です?」
「そなたの娘を、漢の者に嫁がせなさい」
「えっ」
中大兄は耳を疑った。
「何故、そのようなことを」
「我が子ながら、そなたの言葉は信じられぬ。私が死ねば、あの者に何をするかわかりませぬからね」
「人質というわけですか」
中大兄は、ふて腐れたように言った。
「そう申した方がいいかもしれませぬ。とにかく、大田《おおた》と|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野讃良《うののさらら》の二人を、漢の者に嫁がせなさい」
「二人もですか」
中大兄は驚いた。
「そうです」
断固として母の帝は言った。
「嫌なら、有間に位を譲ります」
「——わかりました」
中大兄は受けざるを得なかった。