恨みを呑んで死んだ先帝の霊を恐れてのことである。
その極めて簡単な葬礼のあと、再び帝の座についた母|斉明《さいめい》天皇の即位式は、これまでにない豪華なものであった。
唐風の飾りをつけた輿《こし》で、新帝は正月三日、飛鳥板蓋宮《あすかいたぶきのみや》に入った。
その行列は、この国では例のない見事なものであった。
その輿に従う皇族の中に、漢殿の姿があった。
いや、もう「漢殿」ではない。
皇族昇格にあたって、母の帝は言った。
「これからは、大海人《おおあま》と名乗りなさい」
「大海人」
漢殿はいや大海人は、はじめて自分の名を自ら口にした。
「そうです、大海人皇子です。わらわを助けておくれ」
「はっ、命に替えましても」
大海人は誓った。
皇太子には中大兄が再任された。
このことこそ、母を二度目の玉座につかせる狙いだったのだから、中大兄は満足していた。
しかし、腹を立てていることもある。漢殿いや大海人が日の当たる場所に出てきてしまったことだ。
皇太子である中大兄に続いて、先帝の唯一の忘れ形見有間皇子、そしてその後にもう大海人皇子が続く。
いまの朝廷は、壮年の皇子が少ない。だから、「新参」の大海人が序列としては第三位に入ってしまう。
(油断ならぬ)
中大兄の表情は硬い。
油断ならぬといえば、有間もそうだ。
有間は、中大兄を憎んでいた。
当然である。中大兄もそれは重々知っている。
(有間を何とかせねば、こちらがやられるかもしれぬ)
母の帝の晴れの即位式だが、中大兄にとってはそれどころではない。
心の休まる時は、ますます減っていく。
(これが権力《ちから》というものか)
中大兄は、後に続く有間や大海人に、背中を見せて歩くのが苦痛にすら感じられた。
大海人は、そういう「兄」の苦渋が、最近わかるようになった。
(権力の座を得るのに、血を流し過ぎたのだ)
蘇我本宗家を倒したのは、止むを得ないことだったかもしれぬ。
しかし、その後に古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子や石川麻呂、阿倍内麻呂を討ったこと、先帝を憤死させたことは余計だった。
多くの人間の恨みを買うようなやり方をすれば、その恨みにおびえねばならぬ。それは至極当然の話だ。
恨みといえば、その手先として多くの人々を討った大海人はどうか。
不思議なことに、直接の加害者であるにもかかわらず、大海人はあまり人の恨みを買っていなかった。
すべては中大兄の差し金、中大兄がすべて悪い、大海人はそのわがままの犠牲者だ、ということになっている。
何も大海人が画策したことではなかった。自然にそうなったのである。
大海人が先帝を殺さなかったこともよかった。
中大兄が大海人をして先帝を暗殺させようとしたことは、いまや公然の秘密であった。
それゆえに、大海人がその命令を実行しなかったことは、人々に好感を持たれた。
暗殺をしなかったことだけでなく、皇子でありながら皇子の待遇を受けられないことや、中大兄にいつも無理難題を押しつけられていることなど、同情を買ったのである。
人々の憎しみは大海人の体を素通りして、中大兄に集中している。
大海人はそのことでは、中大兄にいささか同情の念を抱くほどだった。
(それにしても)
こういう立場になれたのも、あの笠の男のおかげであった。もし、あの時、あの笠の男に制止されていなかったら——。
大海人は、まちがいなく先帝を殺していただろう。
大逆の血で汚れた手は、いかなることがあっても浄《きよ》めることはできない。
おそらく、そうなれば、皇族になることもできなかったろう。母の帝とて、実の弟である先帝に直接手を下した人間を、中大兄の猛反対を押し切ってまで、皇族にしたとは思えない。
また、有間皇子にも恨まれただろう。
有間は、むしろ自分に好意を持っているらしい。
どうしてそうなのか。
有間は、大海人が中大兄の命令を蹴飛ばしたと思い込んでいるのだ。
実際はそうではない。
大海人は笠の男に止められなければ、確実に先帝を殺していたのだ。
(ありがたい)
大海人はあらためて感謝した。
笠の男は、まぎれもなく父であろう。
(父上、私は父の名も知らぬ不肖の子ではありますが、父上の御恩は生涯忘れませぬ)
大海人はふと、今も父が自分のことを見守ってくれているような気がした。
あたりを見回した。
(あっ)
大海人は、飛鳥盆地を見おろす甘橿丘《あまかしのおか》の上に、黒駒にまたがった笠の男を見つけた。
(父上だ)
思わず大海人は立ち止まった。
行列が乱れた。
廷臣が注意しにやって来た。
「皇子様、大切な儀式でございますぞ」
「す、すまぬ」
大海人はあわてて列に戻ると、それでも丘の上をちらちらと見た。
まちがいない。
かなりの遠目だが、笠の男は、明らかにあの時の男だった。
(母上の即位式を陰ながら見守っておられるのだ)
大海人は気付いた。
駆けて行きたいところだが、どうしようもない。
儀式の場を離れることはできないし、仮に馬をとばしても、父はそれを見て駆け去ってしまうだろう。
そのうちに、他の人々も、丘の上の男の存在に気付いた。
「何者だ、無礼な奴」
「馬から降りず、笠も取らずに帝を見下ろすとは」
口々にそんな声があがった。
「あの者を引っ捕えよ」
中大兄が叫んだ。
「お待ちなさい」
ぴしゃりと制止したのは、やはり母の帝であった。
輿の上から帝は静かに言った。
「あれは、おそらく化生《けしよう》の者でしょう。放っておきなさい。すぐに消えます」
「しかし——」
中大兄は抗議しようとした。
「いいのです」
その通りだった。
自分の存在が気付かれたことを知った笠の男は、馬に一鞭くれて去った。
その馬の速さに、一同は瞠目した。
「竜馬《りようば》じゃ、あれは」
そんな声がした。
(せめて虫麻呂が近くにいたら、後を追わせるのだが)
この晴れの儀式に、しかも身を隠す場所のない宮廷の庭に、虫麻呂を控えさせておくことは不可能だった。
(父上、今度はいつお会いできるのですか)
万感の思いを込めて、大海人は父の去った方角を見ていた。