中大兄が都を留守にした隙を狙ってのことだった。
盟友として全幅の信頼を置いていた蘇我赤兄が、これこそ好機と反乱をそそのかしたのである。
もちろん、それは中大兄の仕掛けた罠だった。
赤兄は中大兄の意を受けて、有間のふところに入り込んでいたのである。
有間は兵を召集する直前に捕えられ、中大兄のもとに引きずり出された。
都を留守にしたはずの中大兄は、冷やかに有間を見下ろして言った。
「朝廷に反旗をひるがえすとは、天も許さぬ所業であるぞ。申し開きがあるか」
事ここに至っては、有間も自分が罠にはめられたことを悟らざるを得なかった。
「——このことは、天と、それから赤兄が知っている。わたしの知るところではない」
有間はそう言って、あとは一切口を開こうとしなかった。そして、有間は「自殺」という形で処刑された。
大海人は中大兄の酷薄なやり方に慄然とした。
その中大兄のまだ少女《おとめ》といっていい娘が、大海人のもとへやってくることになった。正式な妻としてである。
初めこの話を聞いた時、大海人は顔色を変えて辞退した。
「なりませぬ」
母の帝は厳しく言った。
「わたくしには既に額田《ぬかた》と申す妻がおります。子もいます」
「わかっています。だが、これは、おまえと中大兄との長いむつみのためなのですよ」
「——」
「わらわもそう長くない」
「何をおっしゃいます」
「気休めは言わなくともよい。わらわはもう六十を越えています。いつこの世を去っても不思議はない」
「——」
「だからこそ、おまえたち兄弟の長いむつみを願うのです。そのためには、これが一番いい」
大海人は反論する言葉を失った。
「何を黙っているのです。おまえも妻は一人ではないはず。額田の他にも子を生ませた女がいると聞いていますよ。ちがいますか」
「それは、仰せの通りですが」
額田との間には十市《とおちの》皇女《ひめみこ》、その他に高市《たけち》皇子を別の女に生ませている。
男の子は、いまのところ高市皇子だけだ。
「十市はいずれ中大兄の息子の大友皇子に嫁がせるがよい」
母の帝は、また意外なことを言った。
「そこまでせねばなりませんか」
「そうしなさい。それでこそ、わらわも安心して目をつぶることができます」
否も応もなかった。
こうして、大田《おおた》・|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野讃良《うののさらら》の姉妹が大海人のもとへ嫁いできた。
といっても妹の※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はまだ十一歳だった。姉の大田は十四歳である。
二人はまったく違う性格の持ち主だった。
二人が初めて大海人のもとに来た時、大海人は二人に引出物を与えた。
姉の大田には絹布を、妹の※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野には鞠《まり》を。
だが、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はすぐに姉におねだりした。
「姉上、これを頂けませぬか」
大海人が大田に与えた絹布は、新羅渡来の極上の品であった。
大田はちょっと困った顔をしたが、すぐに微笑《ほほえ》んだ。
「いいわ、あげましょう」
「わあ、うれしい」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、まるで引ったくるようにして、それを奪い、小さな胸に抱きしめた。
「よいのか」
大海人は大田に言った。
「はい」
大田はきっぱりと答えた。
「そんなことでは、何もかも妹に取られてしまうぞ」
大海人は笑った。
「いいのです。可愛い妹なのですから——」
大田は、喜んでいる※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野を目を細めて見ていた。
額田の方は心中おだやかでなかった。若い、身分の高い娘が、二人も妻としてやってきたのだ。
「どうして、お断わりなさらなかったのです」
そう言って額田は何度も大海人を責めた。
「やむを得なかったのだ」
大海人はうんざりしていた。
自分も乗り気ではなかった。
しかし、母の言い分はもっともなのである。
「兄君は、わたしをこころよくは思っていない。こうでもしない限り、この身が危ないと御心配くだされたのだ」
そんなことはわかっている。
額田も理屈ではわかっているのだが、現実に夫が若い娘と楽しげに談笑しているのを見ると、頭に血がのぼってしまうのであった。
「ならば、もっと嫌な顔をなさいませ」
「嫌な顔?」
「そうです、もっと邪険になされば」
額田は眉をつりあげて言った。
「馬鹿な」
大海人は嘆息した。
「そんなことをしたら、母上の御厚志が無駄になるではないか」
中大兄との長い友好のために、二人は来たのである。
それをいじめたりしたら、せっかくの縁が無駄になる。
「御厚志ですか、よろしいわね、殿方は」
額田は、なおも言った。
「いい加減にせよ」
大海人は怒鳴りつけた。
今度は、額田はわっと泣き出した。
(女とは困ったものだ)
大海人は邸を出た。馬で遠乗りでもして気を晴らそうと思ったのである。
飛鳥の村に春が訪れようとしていた。
(ようやく皇族の仲間入りをすることができたか)
考えてみれば長い道のりであった。
帝の血を引きながら、皇族の礼遇は受けられず、かといって平民としての自由な暮らしもままならぬ不自由な日々。
その重苦しい日々から、一気に解放されたのだ。
もっとも額田の嫉妬という余分なものは増えたが。
(どこへ行くかな)
あてのないのが遠乗りの醍醐味である。
女のところといっても、額田以外には、高市を生んだ尼子娘《あまこのいらつめ》しかいない。しかし彼女は高市を生んだばかりで、まだ回復はしていない。子供の顔を見るのもいいが、何となく億劫だ。
(槍を持ってくればよかったな)
槍があれば鍛錬はできる。
しかし、遠くへ行くなら槍は邪魔になる。
邸を出るときに、鍛錬をするのか遠乗りだけにするのか、はっきりと決めてくればよかったのだ。
(虫麻呂に命じて、持って来させるか)
それほどのことも無い気がした。
それなら邸に帰り、庭でやった方がましだ。
(あの娘たちに、槍の稽古などを見せたら、恐ろしさのあまり泣き出してしまうかもしれんな)
大海人は苦笑した。
(さて、どうする)
足の向くまま、大海人は駒を二上山《ふたかみやま》の方へ進めた。都からは少し離れるが、眺めのいい場所である。
だが、大海人は二上山までは行くことができなかった。
都を一歩出たところで、数人の男に取り囲まれたのである。
男たちは手に手に刀や矛《ほこ》を持っている。中には投網《とあみ》のようなものを持っているのもいる。
「何者だ」
答えはなかった。
その代りに、騎乗の大海人を取り囲むようにして、包囲の輪をじりじりとせばめてきた。
「物|盗《と》りか!」
そう叫んだ大海人自身、これは野盗の類いではないことに気がついていた。
得意の槍はない。腰の長剣の柄に手をかけた。
「名乗る名はないようだな」
大海人が冷やかに浴びせると、一人の男が斬りかかってきた。
その刃風の強さに、大海人は戦慄した。
(こやつら、わたしの命を狙っている)
大海人は手綱を左手で握り、右手で剣を抜いて、血路を開こうとした。
馬が突然、鋭く嘶《いなな》いた。
暴漢の一人が、大海人の馬の尻を刺したのだ。
馬は棹立ちになった。
(いかん)
片手に剣を握っているのだから、どうしようもなかった。大海人は放り出され、強く腰を打った。
激痛に気が遠くなった。
「命をもらう」
暴漢たちは口々にそう叫び、殺到してきた。
その最初の攻撃を、大海人はかろうじて自らの剣で受けとめた。だが、その隙を狙って、矛が大海人の右の二の腕を傷付けた。
大海人は、たまらず剣を落とした。
「もらった」
目の前の男が喊声をあげて刀を大上段にふりかぶった。
(だめだ、やられる)大海人は観念して目を閉じた。