新羅は日本に朝貢している。したがって人質も寄こすべきだというのが、朝廷の主張であり、その主張を受ける形で男が「質」として来日したのである。
しかし、男は自分が「質」のつもりは毛頭なかった。
むしろ、日本という国が「改新」という革命のなかで、どのような道を歩もうとしているか、それが自国にとっていいことか悪いことか、それを見極めることを考えていたのである。
男の名は金春秋《きんしゆんじゆう》といった。
春秋は王族の一員ではあるが、王子ではない。背が高く均整のとれた身体《からだ》を持ち、顔には気品があふれ、そのおだやかだが明晰な話しぶりは、この国の宮廷でも賞賛のまとになったほどである。
現に、中大兄もこの春秋にはいたく魅せられ、帰化して朝廷に仕えることを勧めたほどである。
春秋は国際通であった。
北に高句麗《こうくり》、西に百済《くだら》という二大強国に圧迫され続けた春秋の頭にあるのは、祖国新羅をどのようにして救うか、ということである。
日本に来る前に、春秋は高句麗へおもむいた。
むしろ百済と仲のいい高句麗を、自国の方へ引き寄せるためである。
この試みは失敗した。高句麗は既に百済との同盟を固め、新羅を討つ方針が決まっていた。
高句麗は春秋を囚繋した。
その絶体絶命の危機を策によって見事に脱出した春秋は、今度は「質」の名目で日本を偵察に来たのである。
もちろん、中大兄も大海人も、当時はそんなことはまったく知らなかった。ただ、春秋と大海人は、何となく気が合ったことも事実である。
「漢殿《あやどの》、今度拙宅にお越し下さらぬか。桃の花が見事に咲いておりまする」
春秋から微笑を浮かべて誘われたこともある——。
「あの金殿が、王になられた、と?」
大海人は意外な面持ちでたずねた。
「はい」
道行は答えた。
「だが、金殿は確か王子ではなかったはず」
「仰せの通りにございます」
「その金殿が、何故、王になられた」
「奇《く》しき宿縁と申しましょうか。いえ、時があの御方を呼ばれたのでしょう」
「時が——」
新羅の国が高句麗・百済の圧迫を受け、亡国の危機にあることは、大海人とて知らないわけではない。
(そうか、まさに危急存亡の秋《とき》、その器量にふさわしい者が王となったのだ)
大海人は春秋をうらやんだ。
日本はそういうことはない。
ただ、前帝の濃い血縁の者が、次の帝になるだけだ。
「——王は、皇子様のことを懐かしげに思し召され、一度心ゆくまで桃樹の下で酒を酌み交したかったと、仰せられておりました」
「そなたは王に会ったのか」
大海人はたずねた。
「はい、それどころか、この国に拙僧を差し向けられたのは、あの御方なのでございます」
道行の答えに大海人は、はっと気付いた。
「そうか、そなたは新羅の諜者《ちようじや》なのだな」
「御明察にございます」
道行は頭を下げた。