ただならぬ気配に、虫麻呂があわててすっ飛んできた。
「いかがなされました。あっ、その傷は?」
虫麻呂は大海人の手を見て、顔色を変えた。
「大事ない、かすり傷だ」
大海人は言い、道行の方を振り返って、
「それより引き合わせておこう。新羅の道行殿だ」
「新羅の——」
虫麻呂は馬上の男を、油断なく見つめた。
「これは、わしの子飼いの者でな。目と耳と思っていただいてよい。虫麻呂だ」
大海人の言葉に、虫麻呂も頭を下げて、
「虫麻呂でござる」
「道行にござる」
道行は、わざわざ馬から降りて、あいさつした。配下の者もそれにならった。
「では、本日はこれにておいとま致しまする」
道行は頭を下げた。
「うむ、重ねて礼を言う。きょうはそなたのおかげで命を拾った」
大海人も馬から降りた。
虫麻呂が驚いて、大海人の顔を物問いたげに見た。
大海人はそれにはかまわず道行に、
「ところで、そなたの頭《かしら》はどこにいる」
「はあ?」
「頭だ。そなたの上に立つ者がおろう」
「それは海の向うの——」
「いや、この国にもいるはずだ。たとえば、笠の好きな御方とかな」
「そのような御方は存じませぬな」
道行は顔色一つ変えずに答えた。
大海人は笑みを浮かべて、
「よかろう、きょうはそういうことにしておこう」
「では、これにておいとま致します」
道行たちは去った。
その姿が辻を曲って消えると、虫麻呂はただちに言った。
「皇子様、一体どうなされたのです」
「それより、今の一行のあとを尾《つ》けろ」
大海人は別人のように厳しい表情で言った。
「道行殿をでございますか」
「そうだ。あの者の本拠をつきとめよ。そこにはおそらく、頭がいるはず。その者の正体をさぐれ」
「かしこまりました」
虫麻呂は走り去った。
大海人は館の中に入った。
手に傷を負っている。
それを見て、妻の額田《ぬかた》が悲鳴を上げた。
「大事ない」
大海人は再び言い、居室にそのまま入った。
額田は後を追ってきた。
「大事ないと言ったではないか。傷は既に新羅の——医師《くすし》が手当てをしてくれた」
医師と言ったのは安心させるためで、本当は手当てをしてくれたのは道行だった。
ただ、それは唐《から》渡りの金瘡《きんそう》の薬を使った見事なもので、朝廷に仕える医師に頼んだとしても、おそらくそれ以上の手当てはできなかったろう。
そもそも、仏僧は医師を兼ねることが多いし、朝廷にはべる医師も、ほとんどが海の向うから招かれた人々である。
「そんなことではありません」
額田は言った。
「傷も気がかりですが、そもそも、どうして傷を負われたのか、そのことを案じているのです」
「ならば、そんなきつい顔をするな」
大海人は笑ってたしなめた。
「きつい顔にもなります。あなた,一体どうなさったのです?」
「一人で遠乗りに出たところを襲われた、数人の男にな。——なんとか切り抜けたが、手傷を負った。それだけのことだ」
大海人は出来るだけおだやかに言った。
額田は一転して蒼白になり、
「まさか——」
と、思わず言いかけて言葉を呑み込んだ。
「まさか、何だ?」
大海人はけげんな顔をした。
「いえ、よろしいのです」
額田はあわてて首を振った。
「なんだ、気になるではないか。まさか、どうしたと申すのじゃ」
「——」
「かまわぬ、申せ」
「皇太子様が——」
額田は消え入りそうな声で、それだけ言った。
「皇太子様が?」
その名を口にして、大海人もようやく気が付いた。
額田は、中大兄が大海人を狙わせたのではないか、と疑っているのだ。
「それはあるまい」
大海人は自信をもって言った。
「どうして言い切れます」
額田はまだ疑いの目を向けている。
「それは——」
言いかけて大海人は、その可能性も少なくないことに、あらためて気が付いた。
(「兄」はわたしを憎んでいる。皇統に列することに最後まで反対したのも、あの「兄」だ)
腹立ちまぎれに自分を狙う。考えられないことではない。
(いや、あれは百済の手の者だ。現に、道行もそう言っていた)
大海人は心の中で打ち消しながらも、こみあげてくる不安をどうすることもできなかった。