道行らは道を北西にとった。
甘橿丘を越え、飛鳥川に沿ってしばらく走ったかと思うと、今度は道を西に転じた。
竹の内街道である。
(これでは二上山へ行ってしまうぞ)
だが、一行はその直前で北上し、近くの山に入った。
このあたりには、あまり人は住んでいない。だが、その山に、一行は騎馬のまま分け入っていく。
ちょうど馬の鞍のような形をした山で、しかも全山岩で出来ている。もちろん緑の木々もあるが、全体的には殺風景な山である。
ところが驚いたことに、その中腹に道が続き、たどっていったところに岩塊を背にした大きな寺が建っていた。
(いつの間に、こんなところに)
虫麻呂は自分の目を疑った。
山一つ越えれば河内国とはいえ、ここはまだ大和のうちなのである。
その大和の、しかも山の中腹に、このような建物があるとは信じられない。
だが、それは実在した。ここが、新羅人たちの巣窟であることは明かなことだった。
虫麻呂は夜になるのを待って、建物の中に忍び込んだ。
中は小規模ながら、都の寺院と比べても見劣りしない。
その本尊仏の前に一人の男が座って、道行たちと何やら話しこんでいた。
(あれは、もしや、大殿?)
天井裏からのぞきこんでいた虫麻呂は、首領の顔を確かめようと、一歩前へ出た。
その途端、鳴子《なるこ》がからからと鳴った。
(しまった)
まさか、こんな天井裏にまで鳴子が仕掛けられているとは、思いもよらぬことだった。
だいたい天井裏のある建物など、この国にはいくつもない。だから、当然なのだが、虫麻呂は、そこにはまったくの無警戒であった。
これほどまでに用心しているとは、虫麻呂は思わなかった。しかも、あとで気が付いたことだが、鳴子は人の毛髪をより合わせた紐につるされており、極めて目に見えにくくなっていた。
虫麻呂は逃げようとした。
だが、何という不覚だろう。
一歩前に出たところの天井板を、虫麻呂は踏み抜いてしまったのである。
(そうか、切り込みが入れてあるのだ)
気が付いた時は後の祭りだった。
「動くな、動けば矢を射かけるぞ」
道行の声がした。
「殺すでない。けがをさせてもならぬぞ」
太く、それでいて澄み切った懐かしい声だ。
(ああ、やっぱり)
虫麻呂は観念して、抵抗をやめた。
道行の配下によって、虫麻呂は縛《いまし》められ、首領の前に引き出された。
「これ、虫麻呂、この不覚は何としたことじゃ」
首領の声には、からかうような調子があった。
それでいて悪意はない。
虫麻呂は顔を上げて、首領の顔を確認した。
「——お懐かしゅうございます。大殿様」
道行たちが、びっくりしたように虫麻呂の方を見た。
首領は、この国の物ではない礼服を着ていた。ただし髪は総髪で、冠はつけていない。
「上で鳴子が鳴った時から、そうではないかと思っていた。しかし、足を踏み抜くとは、情けないのう、虫麻呂」
「はっ、何とも、面目次第もございません」
虫麻呂は赤面して頭を下げた。
「縛めを解いてやるがよい」
首領は道行に命じた。
「はっ? それでよろしいので」
道行は呆気《あつけ》にとられていた。
「この者はな、わしが初めてこの国に来た時、幼少の身で捨て子にされていたのを拾い上げ、諜者として手塩にかけて育てた者だ。——よいから、解いてやれ」
「はっ」
道行は縄を解いた。
「——虫麻呂殿、御無礼した」
「そちも不覚だぞ。そもそも後を尾《つ》けられることを、どうして考えなかった」
首領は今度は、真面目な口調で言った。
「はっ、申しわけありません。沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様」
道行は平伏した。
「それにしても、さすがに、わが子だ。すぐに後を追わせるとは」
首領の顔がほころんだ。
虫麻呂は首領の顔をながめていた。
虫麻呂にとっては師であり、育ての父でもある人なのだ。
その大殿がこんな近くにいたとは。
(お別れして、もう何年になるか)
あれは、今の女帝と、この首領の間に男の子がいることが露見した時である。
二人は泣く泣く別れさせられ、その子は帰化人の漢《あや》の一族に預けられた。
その時、唯一の臣として付いていったのが、虫麻呂である。もっとも臣とはいっても、まだ虫麻呂は少年だったのだが。
「怠りなく勤めておるようだな、礼を言うぞ」
首領は言った。
「いえ、とんでもございませぬ」
と、虫麻呂は手をついて、
「このたびは、わが懈怠《けたい》をこちらの道行殿に助けて頂き、お礼の申し上げようもございません」
「なに、気にするでない」
首領はその点にはかかわらず、
「ところで、虫麻呂。かの皇子殿はわしのことを知ったのか?」
と、膝を乗り出した。
「いえ、詳しくは御存じではございますまい」
虫麻呂は答えた。
「わしの名をたずねたりせぬか?」
「はあ、そういうこともございましたが、わたくし、幼い頃のこととて何も知らぬと申し上げております。——大殿様のお命じになった通り」
「そうか、それはよい」
首領は腕を組んで、
「だが、いつまでもその手はきくまい」
「——」
「わしも、ここ二十年近く、表には姿を現さぬつもりだったが、ここへ来てはやむを得ぬ」
「と、仰せられるのは?」
虫麻呂の問いに、首領は腕組みしたまま、
「虫麻呂、心得ておけ」
「はっ」
「ここ数年のうちに、韓《から》の国は一つになる」
首領は断言した。
「まことに?」
「うむ、まことのことじゃ」
「どういう形で、一つになるのでございますか」
「さて、そこよ」
首領はからからと笑った。
「わしは新羅の者、ゆえに新羅が韓をまとめればよいと思っておる。だが、世の中は思い通りにはいかぬ」
「百済、それに高句麗」
虫麻呂は国名を挙げた。
「そうだ。だが、そなたも知っての通り、新羅・百済・高句麗の三国がたがいに覇権を争っておった。ところが、その形が崩されようとしておるのだ」
「何故に?」
「唐よ」
首領は苦々しげに、
「あの国は、韓の国をすべて奪う気でおる。だが、あの恐ろしく強く大きな国を相手とするためには、こちらもよほどの覚悟をしなければならぬ」
「——」
虫麻呂は黙って、かつての主人の言葉を聞いていた。
道行たちも耳を傾けている。
「わが国の取るべき道は既に決した」
首領は宣言した。
「唐と手を組み、百済・高句麗を討つ。これがわれらが国王のお決めになった道なのだ」