新羅王金春秋(武烈《ぶれつ》王)は心に誓っていた。
新羅は、西に百済、北に高句麗という強国に囲まれている。
このところ十数年も、新羅は百済と高句麗との連携に悩まされていた。
同盟というほどのことはないが、この二国が二つとも新羅に背を向けていることは、新羅にとって相当につらいことだった。
この状況を打開するため、春秋は高句麗へ行き、また日本へも行った。
高句麗へ行ったのは、かの国と百済の友好関係に終止符を打たせて新たに自国との友好関係を築くためであり、日本へ行ったのは、大化改新体制の偵察のためであった。
これは、見事に失敗した。
高句麗は、唐との長い戦いの間に、新羅が高句麗の南の領土を奪い取ったことを、恨みに思っていたのである。
春秋は監禁されたが、命からがら脱出した。
百済には、恨みがある。
国境の城大耶において、春秋の娘夫婦は百済兵に殺された。春秋はこの遺骨を都へ迎え、報復を誓った。
その憎しみは、ついに大国唐の力を借りて百済を討つというところまで昇りつめた。
もちろん、それが極めて危険な賭けであることはわかっている。
唐の高宗皇帝は、春秋の申し入れを喜んで受けた。もちろん、まず新羅を手先に使って百済を、そしてあわよくば高句麗を滅ぼし、最後は新羅を滅ぼして、韓の国をすべて唐の領土に組み入れようというのである。
それは、唐の常套手段である。
だから、唐の介入を招くことは、韓民族の存亡にかかわる決断なのだ。
それでも、春秋は決意した。
憎しみからばかりではない。このままでは、祖国が危ないからだ。
春秋は、このところ体の衰えを覚えていた。しかし、百済を滅ぼすまでは死ねないと思う。
唐の高宗は、左武衛大将軍として蘇定方《そていほう》に十三万の大軍を授け、新羅に派遣した。そして春秋は、最も信頼し妻の兄でもある金《きん》|※[#「广<臾」、unicode5ebe]信《ゆしん》将軍に五万の兵を与えて、唐軍と合わせ、百済を攻め立てさせた。
※[#「广<臾」、unicode5ebe]信は期待にそむかなかった。
黄山の戦いで、百済の名将|※[#「土+皆」、unicode5826]伯《かいはく》を破り、全軍怒濤のごとく百済の首都|扶余《ふよ》に侵入した。
これに対して、百済の義慈《ぎじ》王は、かつては名君であったが、今や酒に溺れて忠臣を遠ざけ、佞臣を近付けていた。
佞臣たちの作戦は、愚策の連続だった。名将※[#「土+皆」、unicode5826]伯をむざむざ死なせたばかりか、やすやすと敵に首都への侵入を許した。
義慈王は、今はこれまでと、家族や後宮の美女たちを王城に残して、少数の家臣と共に山へ逃げた。
取り残された美女三千人は、王城の裏山から下を流れる白馬江《はくばこう》に向かって次々と身を投げ、死んだ。
義慈王は、命が惜しくなって、息子の太子|隆《りゆう》を新羅の陣中に送り、降伏を申し出た。
応対に出たのは、春秋の息子|法敏《ほうびん》である。
法敏は隆を土下座させ、その顔に唾を吐きかけた。
「おのれの父は、わが妹夫婦を策略によって死に至らしめた。もう二十年近くも前のことだが、わしもわが父も忘れていない。よいか、おのれの命はわが手中にあるのだ」
隆は大地に頭をつけて、じっと嵐の去るのを待った。
この屈辱は、予想されたことだ。
だからこそ父義慈王は、自身で行かず太子を差し向けたのである。
(耐えることだ。法敏はわしの命を奪うことはできない)
それには、確信があった。
唐が、それを許さない。
唐にしてみれば、百済の王族を捕虜として受け入れておくことは、何かの時に役立つという計算があるはずだ。
法敏も、それは知っていた。
「この、ウジ虫め、何とか言ったらどうだ」
法敏には、隆を挑発し、激高して抵抗したところを斬るという狙いがあった。
しかし、隆はひたすらに耐えた。
結局、義慈王と太子隆は、唐の首都長安へ捕虜として護送されることになった。