その知らせは、大和朝廷を震撼《しんかん》させた。
皇太子|中大兄《なかのおおえ》は初め非公式にもたらされた凶報を、なかなか信じようとしなかった。
だが、九月になって、当の百済から滅亡を伝える使者がやってきた時は、さすがに信じないわけにはいかなかった。
中大兄は、母の帝、そして大海人《おおあま》や鎌子《かまこ》たちと共に、その報告を聞いた。
「おのれ、新羅め」
中大兄は、怒りに髪を逆立てた。
「きゃつらは、魂を唐に売った売国の徒と申せましょう」
驚きに顔を蒼白にしている母の帝に向かって、中大兄はきっぱりと言い切った。
その怒りのすさまじさに気押されて、誰一人、何も言おうとはしなかった。
母は黙って、息子の中大兄を見た。
ここで、帝としては何か言わねばならない。
百済の使者も来ている。
この国の王者として、何か言わねばならないのだ。
中大兄は、新羅を糾弾する一言を、母の、いや帝の口から言わせたかった。
とにかく、一言でも言わせてしまえば、日本の態度は固まるのだ。
母の視線は、鎌子から大海人へ移動し、そこで止まった。
(おまえはどう思います?)
その目は、大海人にそうたずねていた。
大海人はためらった。
(確かに百済の滅亡は悲しいことだし、新羅のやり口は許せぬ。しかし、だからといって、軽率に新羅を非難していいものだろうか)
そうすべきではない、と大海人は思った。
王者たるもの、贔屓《ひいき》によって動かされるべきではない。王者が判断を誤れば、それは国の存亡にかかわるのである。
(やはり、申し上げるべきだ)
大海人は口を開こうとした。その時、
「新羅贔屓だからな、そなたは」
中大兄だった。
有無を言わせぬ言い方だった。
「贔屓のある者は、正しく弁じることはできぬ」
「——」
大海人は沈黙した。
(兄上こそ、百済贔屓で物を見ておられるではないか)
そう言いたいのはやまやまだが、どうしても言えない。
それはやはり、長い間、日陰の身として育った大海人の気遅れというものだったろうか。
「百済は、悪の手によって滅ぼされた。ここは何が何でも百済を助けるべきではございませぬか」
中大兄は、女帝にせまった。
「——そのようだ」
女帝は、か細い声で言った。
その声は聞こえたが、あえて中大兄は言った。
「仰せがよく聞き取れませぬ。もう一度、お願い致します」
女帝は不快げに眉をひそめたが、もう一度言った。
「百済を助けるべきじゃ、と申したのだ」
「ははっ、まことにごもっともな仰せ」
「皇太子《ひつぎのみこ》様」
それまで黙って聞いていた鎌子が、たまりかねて前に出た。
「何だ?」
「難儀している者を助けるのは当然ではござりますが、このたびはその価値がありますかどうか」
「何、何を申す?」
中大兄は、不快そうに言った。
「百済を助ける、と仰せられますが、百済は既に滅び、国王、太子ともに唐の捕虜になったということではございませんか。いまさら助けると仰せられても、何をどう助けるのでございますか」
鎌子は、諄々と説いた。
「決まっておるわ。われらは、百済の復興を助けるのよ。亡国を再び建国しなおすのだ」
「その中心となる御方は、おられぬではございませんか」
「いる」
中大兄は叫んだ。
「どなたで?」
鎌子は首を傾《かし》げた。
百済の王族は、もういないのである。
「いるではないか、豊《ほう》どのよ」
一同は、あっと驚いた。