余人を遠ざけると、中大兄は緊張した面持ちで、豊璋の祖国百済の滅亡を告げた。
豊璋は、驚きを見せなかった。
中大兄は、拍子抜けした。
驚愕し、泣き出すかもしれない。もしそうなったら、何と言って慰めるべきか、さんざん考えてきたのだ。
しかし、豊璋は、さすがに笑いはしなかったものの、たいして表情も変えずに二、三度うなずくのみだった。
「知っていたのか?」
「——はい、国の者から聞きました」
「そうか。何と言って慰めたらいいのか、わからないが——」
「いえ、わたくしは何とも思っておりませぬ」
豊璋は言った。
中大兄は目を丸くして、
「まさか、そなたの国が滅びたのだぞ」
豊璋は笑みすら浮かべて、
「わたくしの国、それはむしろこの日本でございます」
「ほう、そういうものか」
「はい、わたくしは幼い頃より、この国で暮しております。今では、百済の言葉すらあやふやになる始末。わたくしの故郷はここでございます」
「——」
「これは、あなた様ゆえ申し上げますが、わたくしは今、いっそせいせいした思いでございます」
「せいせいしたとな」
「はい」
「わからぬのう」
中大兄は首をひねった。
「なまじ国があれば、いつまでも縁は切れませぬ。国の人も何かと申します。しかし、国が無くなってしまえば、わたくしもそのことを気にせずともすむ」
「しかし、父上や兄上のことを思えば、心おだやかではあるまいに」
中大兄の言葉に、豊璋は少し目を伏せたが、
「確かに、そのことは気になります。気にはなりますが、殺されたわけではなし、国が滅びても身を全うしたのだから、むしろ喜ぶべきではないでしょうか」
「——」
中大兄は豊璋を見損なっていた、と思った。
なるほど、そういう心情は、会うたびに聞かされてはいた。
しかし、いくらなんでも、国が新羅と唐によって滅ぼされたと聞けば、怒りにふるえるだろうと思っていた。
(これではいかん)
中大兄は慌しく思案した。
ここへやって来たのは、単に百済の滅亡を告げるためだけではない。
他に重大な思惑があってのことだ。
「——豊どの」
中大兄は居ずまいを正して、
「ぜひ、聞いてもらいたい話がある。内々の話なのだが」
「はい、うけたまわりましょう」
けげんな顔をしながらも、豊璋は聞く姿勢を取った。
「百済の使者は、そなたを故国へ連れて帰りたいらしい」
中大兄の言葉に、今度は豊璋が目を丸くした。
「一体、何のために?」
「言うまでもない。百済王家を復興し、百済国を再建するためだ」
中大兄は身を乗り出した。
「——どうかな、豊どの、そなたの考えは?」
豊璋は目をみはり、そして力無く首を振った。
「わたくしには、そんな気はありません」
「——」
「その力もありません。わたくしは戦いなどしたことがない。国を再建するということは、あの唐や新羅と戦わねばならぬのでしょう」
「そうだ」
中大兄はうなずいた。
豊璋は再び首を振って、
「それは、わたくしの任ではありませぬ。第一、百済にはもはや兵はおらぬはず」
「いや、いる」
中大兄はそう言って、
「豊どの、百済が滅びたといっても、ただ都が落とされ、王が連れ去られたというだけのことだ。人民も兵も、ほとんど損ぜずに丸々残っている。この者どもは、唐と、その唐と手を組んだ新羅を憎んでおる。倒したいと思っておる」
「まことに?」
豊璋は疑心を抱いた。
「まことのことじゃ。ただ兵はおり民はおっても、それを束ねる者がおらぬ」
「束ねる者?」
「そうだ。百済王家の血を引く者、いや、もう少しはっきり言おう。そなた、だ」
「わたくし?」
「そうだ。豊どの、戻って百済王になられよ」
「このわたくしが王にですと」
豊璋は、じっと中大兄を見つめた。
中大兄も豊璋を見つめ返して、
「そうだ。王になるのだ」
「わたくしにはそのような資格は——」
「あるではないか。豊どのは、まごうことなき百済王の王子じゃ。王が唐へ連れ去られた今、百済王家を立てなおすのは、豊どのの他に誰がいる?」
「わたくしは、——だめです」
豊璋の喉は、カラカラに乾いていた。
「なぜだ」
「申し上げたではありませんか。わたくしは兵を用いることなど出来ませぬ」
「そなたは、兵を用いる必要はない」
「——?」
「王というのはな、何事も部下に任せて、どっしりとしていればいいのだ」
「それにしても——」
豊璋は、何とかこの話を無いものにしてしまいたかった。
いかに祖国とはいえ、国へ帰る気持ちはとうの昔になくしていたし、中大兄に言った通り、日本こそ自分の国だと思っている。
帰るのは億劫だし、戦うのはさらに億劫であった。
いや、億劫どころではない。下手をすると、命を失う危険すらあるではないか。
(わたくしは何も要らぬ。ただ、この三輪山の地で蜂を飼い、蜜をとるのが性に合っている。王となって戦うなど、とんでもない)
中大兄は、豊璋の心を見抜いていた。
しかし、それでも中大兄は豊璋に祖国への帰還を勧めたかった。
(この次は、日本の番かもしれぬ)
その思いがあるのだ。
唐が新羅を手先として日本へ攻めてくる可能性も、ないとは言い切れない。
それを防ぐには、海の向うになんとしても防壁が必要だった。
それにちょうどいいのが百済である。
いや、正確に言えば百済の遺民だ。
この数十万の人々が立ち上がって唐に抵抗してくれれば、唐の侵攻は、数年は遅れるだろう。
いや、あわよくば百済を再建出来るかもしれない。
そうなれば、百済の再建に最大の功があるのは日本だということになり、日本は百済を傘下におさめることが出来る。
そして日本は、ますます安全になる。
そのためには、どうしても豊璋を口説いてその気にさせねばならなかった。
「いえ、あなた様のお言葉とはいえ、これだけは従えませぬ」
豊璋は、きっぱりと断わった。
豊璋の最大の不安は、戦わねばならぬのに戦ったことなど一度もないという点にあった。
その不安がぬぐえぬ限り、祖国への帰還は有り得ない。
中大兄は熱誠を込めて説いたが、どうしても豊璋をその気にさせることは出来なかった。
「兵を束ねることの出来る者がおれば別ですが——」
豊璋は、最後はそういう言い方をした。
「わかった」
中大兄もついにあきらめた。
確かに、この豊璋を丸腰で国へ帰しても、すぐに敵の捕虜になるのがおちだろう。
(兵を束ねる者か)
中大兄は嘆息した。
そういう者が現われれば、話は変るかもしれない。
だが、いまのところは、あきらめるしかないのだ。
百済生まれの豊璋よりも、中大兄の方が百済復興への熱意があるという、何とも奇妙な状況ではあった。