目指すは百済の首都扶余である。
ここで唐・新羅に抵抗の狼火をあげている百済の遺将鬼室福信に加勢すると共に、現在日本にいる百済王子の余豊璋を送り届けるのが目的だ。
「おまえもついてくるがよい」
大海人は妻の一人である大田皇女に言った。
「はい」
大田はうなずいた。
「途中で生まれるだろうな」
「——はい」
妻はまもなく臨月であった。
「済まぬな。本当は連れて行きたくはないのだが」
大海人は言った。
それは本心だった。
皇族の親征には妻が同行するというのが、この国の掟だった。
言い伝えでは日本武尊《やまとたけるのみこと》の東征に妃の弟橘姫《おとたちばなひめ》が同行したし、近くは厩戸《うまやど》皇子(聖徳太子)の弟|当麻《たぎま》皇子が妻を連れて新羅遠征の途についている。ただし、この遠征は途中で妻が死亡したため、海を越えることなく中止されている。
臨月だからといって、辞退できるものではなかった。六十七歳という高齢の母の帝自ら西へ下るのである。
女帝は九州|那大津《なのおおつ》(博多)まで行き、そこから半島へ向かって船出する軍団を見送る予定だ。もちろん大海人も、「兄」の中大兄も、さらに遠くへ行かねばならない。
中大兄は総大将として、唐・新羅連合軍と戦うつもりなのである。
「わたくしのことは、どうか御心配なく」
「うむ」
「それよりも——」
「何だ」
「帝の御身の上が心配でございます」
「——」
大海人は黙った。
本来なら、皇太子の中大兄が無理にでも帝を都にとどめなければいけないのだ。
(だが、今、あの御方は自分を見失っている)
とにかく、新羅憎しに凝り固まっていると言っていい。
新羅を倒すために、あらゆる力をすべて結集しようとしている。
そのためにのみ心が集中して、母の帝の健康のことなど眼中にないのだ。
「わしも心配申し上げていないと言ったら、嘘になる。しかし、やむを得ぬのだ」
大海人は大田の肩に両手を置いた。
「よい子を生むのだぞ」
「はい」
その二人の様子を、柱の陰からじっと見つめる女の姿があった。
額田王《ぬかたのおおきみ》である。
大海人と額田の間には十市《とおち》皇女がいるが、それ以後、二人の間には子は生まれていない。
額田の目は猫のように光ってみえた。