そして、年の明けるのを待って、正月の六日に、大船団を率いて出発した。
瀬戸内海を島伝いに進み、那大津に向かうのである。
途中、備前の大伯海《おおくのうみ》を通った時、産気づいた大田は女児を生み落とした。大伯海で生まれたので、大海人は、その子に大伯《おおく》という名をつけた。
航海はしごく順調で、八日後には、船団はいったん伊予の熟田津《にきたづ》に入港した。
ここには道後《どうご》の湯がある。
女帝にとっても、夫の舒明《じよめい》帝と共に過ごした思い出の地である。
ここで女帝は、しばらく時を過ごすことになった。
それは当初からの予定でもあった。
「母上には休んで頂き、足らぬ兵を募《つの》る」
中大兄は言った。
兵はいくらいてもいい。
東国の兵は充分に集めて来たが、西国でも兵を集め、それで戦うつもりなのだ。
中大兄は、道後の石湯《いわゆ》に仮宮を置いた。
女帝は、ほっとしていた。
「母上、ここでしばらくお休み下さい」
「どれくらい休めるのでしょう」
そう言った女帝の顔には、疲労の色が濃かった。
「まあ、四、五日は」
中大兄は、母がそれほど疲れているとは思っていない。
「——帰りたくなりましたよ」
「何を仰せられる」
中大兄は怒って、
「これから唐・新羅と大戦《おおいくさ》を始めようというのに、そんな弱気では困ります」
「——」
「さあ、湯に入ってお休みなされ。この湯は万病に効く湯だそうで」
「知っています。前にも来たことがありますから」
女帝は、思いやりのない息子の言葉に、腹を立てていた。中大兄は母をなだめると、宿舎に戻って、配下にあれこれ指図した。
戦争というのは忙しい。
やることは山ほどある。その日のすべての仕事が終わったのは、深夜のことだった。
(疲れた)
中大兄も人の子である。
これだけ働くと、やはり少しは息抜きがしたくなる。
(海へ行くか)
ふと、そう思った。
温泉は、ここからは少し遠くにある。本営は海岸近くにある。温泉に入るためには馬をとばして行かねばならぬが、海なら歩いて行ける。
ひさしぶりに潮騒を聞くのも悪くない。
きょうは十六日であった。
十六夜《いざよい》の月は大きく明るい。
そういう月が出ていなければ、中大兄は外へ出ることもなかったろう。
中大兄は唯一人で、波の打ちよせる浜に出た。
砂浜は広く、風はまだ寒い。
月明りの中で、中大兄は砂浜に女が一人たたずんでいるのに気が付いた。
「この夜更けに何をしておられる?」
海の方を見ていた女は、驚いて振り返った。
「——皇太子《ひつぎのみこ》様」
「おう、そなたは」
額田であった。
「何をしておられたのだ」
「皇太子様こそ、このような夜更けに、お供も連れられず——」
「いや、なに、海を見たくなってな。月も明るいしな」
「わたくしは、歌を詠んでおりました」
「ほう、歌を」
「はい」
額田は伏し目がちに答えた。
「それはぜひ聞かせてもらいたいな」
「いえ、皇太子様にお聞かせするほどのものでは——」
「かまわぬ、聞かせて欲しい」
額田は少しためらっていたが、海の方へ視線をそらすと、小さな声で詠じた。
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕《こ》ぎ出でな」
(ほう)
中大兄は感心した。
実のところ、額田の歌を聞くのは、これが初めてだが、
(うまい)
と、感じた。
「お恥しゅうございます」
額田は頭を下げた。
「そなたは、何かから離れたがっておいでのようだ」
中大兄はずばりと言った。
内心の動揺を隠すように、額田は顔を伏せた。
「どうやら、当たりましたな」
「いえ、そんなことは」
「離れたいのは、かの君ではないかな」
額田はいぶかしげに中大兄を見た。
中大兄はにやりと笑って、
「かの君、すなわち大海人だ」
「いえ」
額田は首を振った。
「隠さるるな。わしにはわかっている」
そう言って、中大兄はいきなり額田のところへ歩み寄ると、その身体《からだ》を抱き締めた。
「何、何をなさいます」
額田は抵抗した。
「心に正直になることだ」
中大兄は力をゆるめずにささやいた。
「——」
「そなたの夫《つま》はどうした? この頃、若い娘に心を移しているような」
「違います」
「違うか。だが、身体はそうは言ってはおらぬぞ」
中大兄は額田をその場に押し倒した。
その手が額田の着衣にかかる。
「御無体な」
額田は叫んだ。
「無体なのは、そなたの夫だ。そなたほどの者を、ないがしろにするとは許せぬ」
中大兄は額田の唇を、自分の唇でふさいだ。
あまりのことに、額田の全身から力が抜けた。
「そなたが悪いのではない。悪いのは、あの者だ。そなたは、あの者に報いを受けさせておるのだ」
中大兄は額田を再び抱き締めた。
その言葉を聞いて、額田はもはや抵抗はしなかった。