中大兄は、ただちに仮宮を造らせた。
長津宮《ながつのみや》である。
しかし、それはあくまで仮のもので、ここに腰を据えて半島を攻めるためには、もう少し恒久的な施設が必要だった。それを、中大兄は朝倉という場所に建設することにした。
朝倉には土地の神を祀る古社が鎮まっている。中大兄が宮殿を造ろうとした場所は、この社地にあたっていた。
「かまわぬ、木を伐《か》って森を開け」
中大兄は命じた。
現地で徴発された人夫は、それを聞くと青くなって首を振った。
「できませぬ」
その言葉が役人を通じて中大兄に伝えられると、中大兄は烈火の如く怒った。
「なぜだ」
「祟りがあるからと、申しております」
役人はおそるおそる答えた。
「何が祟りだ」
中大兄は役人を怒鳴りつけて、
「われらは天津日継《あまつひつぎ》の皇軍だ。われらのなすことに、神々の祟りがあろうはずがない」
「——」
「かまわぬ、伐れ。伐ってしまえ。命令を聞かぬとあらば、聞かぬ者の首を伐れ」
中大兄の厳命に、社地の森はほとんど伐採され、新しい宮ができた。
五月のことである。
中大兄はここでも兵を募っていた。九州の兵は強い。その強さは東国の兵に優るとも劣らぬほどである。
また、船も新しく造っていた。
古くから大陸との交流があるので、船を造る技術も場所も事欠かない。
その準備期間であった。
中大兄は木の香りも新しい新宮へ、母の遷座を願った。
「悪い噂を聞きましたよ」
廷臣の並ぶ中で、女帝は中大兄に言った。
「なんでしょう」
中大兄は表情を変えずに言った。
「そなたが、新しい宮を築くため、古き神々の社地を犯したとか」
「根も葉もない噂でございます」
中大兄は言い切った。
「本当にそうかえ」
「——母上は、わたくしの言葉より、根も葉もない噂の方をお信じになるのですか」
中大兄は言い返した。
女帝は沈黙した。
証拠があってのことではない。
「ならば、そなたを信じましょう」
女帝は新宮に入った。
ところが、中大兄が予期もしなかった事態が起こった。女帝が病いの床についたのである。
中大兄は初めは甘く見ていた。
単なる疲労と見たのである。
しかし、病状は悪化の一途をたどった。
七月に入ると、このまま床を上げることはないと、誰の目にもわかった。
なにしろ六十八歳である。女性の方が長命とはいえ、この歳まで生きられたとは、むしろ幸運といっていい。
女帝はその月の十日を過ぎると、中大兄と大海人を枕頭に呼んだ。
「わらわは、もういけませぬ。後のことは頼みましたよ」
「母上、何をお気の弱いことを」
中大兄が心にもないことを言った。
女帝の顔は土気色で、もう長くないことは誰の目にも明らかだった。
女帝は中大兄をにらむように、
「葛城《かつらぎ》」
と、その幼名で呼びかけた。
「葛城、そなたは才はありますが、誠が少々足らぬようじゃ。国の主として、もう少し、そのあたりを考えなさい」
「——はい」
いつもなら反駁するところだが、相手が病人であることもあって、中大兄は一応はうなずいた。
「そなたには苦労をかけましたね」
と、女帝は大海人には優しい言葉をかけた。
「母上」
「そなたはこの世に生まれた時から、不運がつきまとっていた。その不運はこの母が招いたもの。許しておくれ」
「許すなどと、とんでもないことです」
大海人の目に涙があふれた。
「それから、それから——」
女帝は中大兄の存在など、もう眼中にないように、
「もし、かの君に会うことあれば伝えておくれ。——わらわは異国へ行くことも辞さぬ気であったと」
「母上」
大海人はたまらず前に出て、母の上にかがみ込んだ。
母は笑みを浮かべていた。
三日後、女帝は眠るように息を引き取った。
ただちに遺骸は棺に納められ、殯宮《もがりのみや》が造られた。
「皇太子様、この上はただちに都へ引き上げ、母の帝の大葬を行なうべきです」
大海人は、母の棺の前で、おだやかな口調ながら断固として言った。
「馬鹿な、何を申す」
中大兄は一笑に付した。
「——われらは百済救援のために来たのだぞ。ここで引き上げては、百済が今度こそ本当に滅びてしまう」
「ではございましょうが、ここはやはり子としての道を——」
「百済救援という大義の前には、すべて忍ばねばならんのだ」
「——」
「わしとて、本来なら即位の礼をあげねばならぬ。しかし、わしは勝つまでは、せぬつもりだ」
「では、どうなさる」
大海人は目を丸くして言った。
「このままだ」
「このまま?」
「そうだ、皇太子として指揮をとる」
「すべては、勝ってから、と仰せられますのか」
「その通りだ。そなたにも従ってもらうぞ」
「——」
「どうした、皇太子の言葉に逆らうというのか」
「いいえ」
大海人は苦いものでも飲み下すような顔をして言った。
「ならばよい」
中大兄は胸を張って去った。
(棺だけでは足らぬ。郭《そとばこ》を作らねば)
大海人は思った。
既に棺からは腐臭が漏れ出ていたのである。