死穢《しえ》を嫌ったのと、中大兄に対する人々の不満が高まりを見せていたこともある。
仕方がない、ここはいったん都へ帰り、母の葬儀をより盛大に行なうことだ、と中大兄は決断せざるを得なかった。
本当は嫌だった。
これで都へ往復していたら、どうしても対百済支援作戦は遅れを取る。
その遅れが致命的にならないだろうか、というのが中大兄の心配の種なのである。
いよいよ出発という日、中大兄は大海人を呼び付けた。
大海人は妙な顔をした。
本来ならいるはずの廷臣が一人もいない。
お付きの者もいない。
二人きりである。
これは極めて異例のことだ。
「これから母上の棺をお守りして、都へ戻る。留守を頼む」
「はい」
大海人は頭を下げた。
中大兄はちょっと沈黙した。
大海人は不思議に思った。
これで用は済んだはずだ。
人払いするほどのことでもない。
いやむしろ、正式に後を託すなら、群臣の見守る中の方がいい。
「——何か?」
大海人の方から言った。
すると、中大兄はぷいと横を向くと、
「額田を連れて行くぞ」
と、独語《ひとりごと》するように言った。
「——?」
大海人は耳を疑った。
何を言っているのだとすら思った。
額田は大海人の妻なのである。
「わかったか」
中大兄は今度は大海人を正視した。
「どういうことです」
「わからぬか、額田はわしの元へ来ると言っているのだ」
「額田が、まことですか」
大海人は愕然とした。
「疑うなら、本人に聞いてみるがよい」
中大兄は冷笑を浮かべた。
大海人はきびすを返し、そのまま行こうとした。
「待て、もう一つ、申し渡すことがある」
中大兄はその背中に向かって言った。
「百済に行ってもらうぞ。わしの代理としてな」
大海人は振り返ることなく、そのまま走り去った。
額田は青白い顔をして、大海人の来るのを待っていた。
その表情を見て、大海人は中大兄の言葉が正しいことを知った。
「額田」
大海人はそれでも呼びかけずにはいられなかった。
額田は、座っていた椅子から立ち上がった。
無言である。
「どうした、何か申せ」
「——お世話になりました」
額田は頭を下げた。
大海人の頭に血が昇った。
「許せぬ」
大海人は剣の柄に手をかけた。
「お斬りになりますか、お斬りになるのならどうぞ」
抑揚の無い声で額田は言った。
「恐ろしくはないのか」
「あなたに斬られるなら本望でございます」
(斬るか)
大海人は一瞬そう思った。
(このまま、きゃつの手に渡すぐらいなら、いっそのこと、この手で——)
だが、大海人はどうしても剣を抜くことができなかった。
「おいとま致します」
額田は頭を下げて、外へ出て行こうとした。
その背中に、大海人は声をかけた。
「——十市《とおち》はどうするのだ」
二人の間に生まれた娘である。
「残していきます」
額田は振り返らずに答えた。
「いいのか、それで」
だが、額田は無言のまま静かに部屋を出て行った。一人残された大海人は、その時になって初めて剣を抜いた。
(おのれ)
その剣で、大海人は部屋の中央の卓子を叩き割った。
心の中に初めて、「兄」に対する殺意が燃え上がった。