(これでよかろう)
既に悲しみは薄れていた。
中大兄の頭にあるのは、唐・新羅との大戦《おおいくさ》をいかにして行なうかということばかりである。
飛鳥の冬は寒い。
その中で、中大兄はひたすら春を待った。
余豊璋《よほうしよう》が故国へ帰ることになったのは、年が明けて、桜の季節になってからだった。
豊璋は宮廷に挨拶に来た。
中大兄は喜んでこれを迎えた。
「豊どの、いよいよだな」
中大兄は満面に笑みを浮かべて言った。
豊璋は緊張して、顔色がよくなかった。
「——これにてお別れです。長い間の御好誼、感謝の言葉もありません」
「何を他人行儀な。われわれは兄弟も同然ではないか」
中大兄は玉座を立つと、百済の正装をした豊璋の手を取って、
「百済国の回復を祈っておるぞ」
「ははっ」
豊璋は深く一礼した。
「いろいろ考えたのだが、やはり豊どのを送るのは阿曇比羅夫《あずみのひらふ》に命じることにした」
「それは、ありがたきお言葉」
豊璋の顔に赤味がさした。
中大兄も初めは阿曇比羅夫を遣わす気はなかったのだが、豊璋王子の身に万一のことがあっては、日本の百済救済計画が根本から崩れると思い直し、手持ちの駒の中で最も有力なものを使うことにしたのである。
「必ず祖国を回復させよ。祈っている」
別れにあたって、中大兄はもう一度言った。
それは本心だった。
百済が復興すれば、日本の守りは万全になる。
もし万一、これが失敗するようなことになれば、日本はただちに超大国唐による侵略の危険にさらされるのである。
正直言って、豊璋は軍事指揮官としては物足りない。蜜蜂を飼うのが取柄のおだやかな人物である。
しかし、百済には鬼室福信《きしつふくしん》という戦《いくさ》巧者がいて、百済復興軍の指揮を執っている。福信は唐・新羅の連合軍に対してよく戦い、なかなかの戦果をあげているらしい。
(戦いは福信に任せておけばよい。豊璋は玉座について、どんと構えていればよいのだ)
中大兄はそう考えていた。
そう考えれば、豊璋の頼りなさそうな顔も、気にならないというものである。
豊璋は阿曇比羅夫率いる一万の軍勢と共に、飛鳥を旅立っていった。