ここは、朝廷の前進基地である。
(中大兄は何を考えているのだ)
大海人は苛立ちを抑えることができなかった。
豊璋が飛鳥からこの那大津に寄港し、韓半島へ向かった時も、大海人には何の指令も届かなかった。
(とりあえず、様子を見るつもりなのだろうか)
しかし、福信の要請によって、日本が軍勢を付けて豊璋王子を送り帰した以上、明らかに唐に敵対する行動に出たことになる。
(ならば、一気に攻めた方がよくはないか)
大海人はむしろそう思う。
福信の率いる百済復興軍の勢いは、なかなか侮り難いというが、なにしろ相手は日本の数倍、数十倍の国力を持つ唐である。戦うなら、初めから徹底的にやった方がいい。
もちろん、大海人は本心では唐・新羅に対して事を構えるのは反対である。
それは、父が新羅出身だという親近感からではない。
中大兄の戦略は、結局は国を誤るのではないかという危惧からである。
確かに、百済に味方するにしても新羅に味方するにしても、この決断は非常に難しい。
いずれにしても唐は、すべての国を併呑しようとするはずだ。その激流のような力に対抗するのは容易なことではない。
ただ、大海人はむしろ新羅と手を組んだ方がいいと思っていた。
中大兄は、新羅は唐の手先ではないかと、そんな考えを一笑に付すだろう。
確かに、新羅は唐と手を組み、いま百済を滅ぼそうとしている。
しかし、それは新羅が百済に滅ぼされそうになったからだ。新羅としては止むを得ない処置である。
そして、この唐と新羅の蜜月関係は、いつまでも続かぬものと、大海人は見ていた。
唐は新羅を友として見ているのではない。単に「道具」として考えているだけだ。だから半島の統一に目処《めど》がつけば、新羅とは必ず敵対する。唐は新羅を滅ぼし、すべてを自分のものにしようとするだろうし、新羅はそうはさせじと全力を挙げて反抗するに違いない。
そうなれば勝機はある。
だが、そのことを献策しても、受け入れないことはわかっていた。
中大兄は新羅憎しの感情にとらわれている。しかも「異父弟」である自分に対する憎しみの情が、それを増幅させている。
やりきれぬ思いがした。
大海人は妻の大田皇女のところへ行った。
額田が去った今、この大田皇女と妹の※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野皇女だけが、大海人の心の安まる対象なのである。
「これから、どうなりましょう」
大海人が椅子に体を預け溜め息をもらした時、大田がそう尋ねた。
「——唐と大戦だ。それはもう動かぬ」
大海人は目を閉じて言った。
疲労感が全身からにじみ出ていた。
「勝てるのでしょうか」
大田は思い切って言った。
「——」
大海人は目を開くと、大田をまっすぐに見据えて言った。
「わからぬ」
「もしも——」
そう言いかけて、大田は言葉を飲み込んだ。さすがに不吉だと思ったのだろう。
「負けたら、どうなるか、ということか」
大海人はこだわりもせずに言った。
大田は生唾を飲み込んだ。
「百済では、国王、太子が捕虜とされ、長安へ連れて行かれた」
「殺されたのですか」
「いや」
大海人は首を振った。
「あの国は、いきなり殺すようなことはせぬ。生かしておいて、とことん利用するというのがやり口だ」
「そうですか」
ほっとしたように大田は言った。
大海人は笑って、
「命さえ助かればいい、というものではあるまい」
「いえ」
大田は頑固に首を振った。
「命あってこそではございませぬか」
「そこが女子《おなご》と男の違うところだ」
大海人は言った。
その時、部屋の外から声がした。
「皇子《みこ》様、飛鳥よりの使者でございます」
「なに」
大海人は立ち上がって、扉を開けた。
廷臣に連れられた使者の男が、大地に平伏していた。
「皇太子《ひつぎのみこ》様からの書状でございます」
使者は廷臣に向かって、それを差し出した。
廷臣は受け取って、それを大海人に渡した。
大海人は封を切ると、それを読み出した。
中味はそれほど長くはない。
すぐに読み終えた大海人の顔色は変っていた。
「どうなさいました」
大田が心配そうに言った。
「ただちに海を渡り、百済軍と力を合わせよ、との命令だ」
大海人は言った。
「あなた」
大田は蒼白になった。
皇族である以上、この九州にとどまっていればいいと思っていたのである。
しかも、最前線に出ろという。
出れば、戦死という最悪の結果も有り得るのである。