日本軍に送られ即位した百済の新国王余豊璋が、救国の英雄鬼室福信を殺してしまったのである。
豊璋と福信は、初めて会った時から、どうにもそりが合わなかった。
福信は、どちらかというと乱暴者で、乱世でなければ頭角を現わすことはなかっただろう。
礼儀知らずで横紙破り。鬼室氏は百済では名の通った家柄だが、福信のことは、はじめ誰も知らなかった。
根っからの武人で、官僚ではない。
一方、豊璋はこれまで武張ったことには、まったく無縁の文人であるが、自分は王の子であるという強烈な貴族意識だけはあった。
しかし、福信には、自分が迎えてやったからこそ、嫡男でもない豊璋が王になれたのだという思いがある。
それが、豊璋に対する侮りを生んだ。
まして、豊璋は兵のことは何も知らない。その割には口を出すので、福信はことごとに豊璋を無視する態度を取った。
これにつけ込んだのが、先代からの生き残りである宦官《かんがん》たちであった。
唐の捕虜になることを巧みに免れた宦官たちは、自分たちの保身しか頭になかった。それはひたすらに豊璋の意を迎え、取り入ることである。
彼らは、福信が前線に出ているのをいいことに、あることないこと告げ口した。
そういう連中を御した経験のない豊璋は、簡単にそれに乗せられた。ついには、福信が謀反を企てているという讒言《ざんげん》を信じた。
冷静に考えてみれば、豊璋あってこその福信であり、この大看板を失っては、福信の勢威は有り得ない。
豊璋にとって代り得る王族がいれば、また話は別なのだが、福信にはそんな手持ちはない。
いかにそりが合わないとはいえ、豊璋をかつぐしかない。
このことが、にわか国王の豊璋には全然わかっていなかった。
幼い頃から宮廷にいれば、このあたりの機微はわかったはずだが、あいにく豊璋には世捨人としての経験しかない。
新生百済国はついていなかった。
豊璋は、側近の讒言を信じ、福信を宮廷に呼びつけ、一言の釈明も許さず欺し討ちにした。
百済軍の士気は大いに低下した。
一部だが、脱走者も出た。
そして、最大の失敗は、これによって百済軍を完全に掌握する者がいなくなったということであった。
福信は、その人柄には問題があるとはいえ、武人として、大将としては、一流中の一流の才を持っていた。
だからこそ、強大な唐・新羅連合軍に対して、ここまで勝利を収めることができたのである。
そして、このことはさらに悪い結果を招いた。
福信暗殺に怒った百済軍の兵のうち、唐に投降する者がでたのである。
投降者は、福信殺さるの事実を唐に告げた。
唐側は狂喜した。
早速、三万の大軍を百済にさし向けたのである。
中大兄は、飛鳥で福信粛清の知らせを聞いた時、耳を疑い、使者を怒鳴りつけた。
(豊どのも、何という間抜けな)
中大兄は怒りを鎮めると対策を考えた。
唐の立場に立てば、必ずこの機を逃さず、攻勢に転じようとするだろう。
百済軍の士気は低下しているはずだ。
ここで応援しないと、百済軍は大敗走の危機すらある。
(大海人を韓半島にやろう)
中大兄が決意したのは、まさにこの時だった。
中大兄は大海人を嫌っていたが、武人としての能力は評価している。
ここで、すべてをつぎ込む形で、百済を後押ししないと大変なことになる。
豊璋の命もあぶない。
(唐は勇んで攻めてくるに違いない。一刻も早く援軍を出して、何とか迎え撃つのだ。それしかない)
中大兄は命令を下した。
二万にものぼる大軍を編成し、ただちに百済に向かわせた。
同時に、大海人ら那大津に駐留している派遣軍にも合流を命じた。
総計二万七千の大軍である。
軍勢は対馬《つしま》を通って、半島の南岸沿いに、その西側に回った。
半島の西側、海を隔てて向い側には唐がある。また東側には新羅がある。
百済の拠点|泗《し》|※[#「さんずい+比」、unicode6c98]《ひ》城は、海から少し内陸に入ったところにある。
当然、泗※[#「さんずい+比」、unicode6c98]城にたどりつくためには、海に流れ込んでいる大河白馬江をさかのぼっていくしかない。
その河口の白村江《はくすきのえ》に、唐・新羅の連合軍は待ち伏せていた。
「倭船の造りは稚拙だ」
このことは百済の降兵からも、新羅の軍からも情報が入っていた。
日本の船団はそうとも知らずに、白村江に近付いていた。