日本軍は三軍編成で、前将軍阿曇比羅夫、中将軍|巨勢神前臣訳語《こせのかんさきのおみおさ》、後将軍阿倍比羅夫である。
しかし、三人のうちで総大将は誰かということは、はっきりしなかった。
そのうえ、各軍団も急いで掻き集められたため、指揮系統もうまくいっていなかった。
大海人は後将軍阿倍比羅夫と同じ船に乗っていた。
「まもなく白村江が見えてきます」
阿倍は、甲板で半死半生になっている大海人に声をかけた。
「そうか」
大海人は長槍を抱きかかえるようにして、座っていた。
船酔いにやられたのである。
こみ上げてくる吐き気と戦うために、大海人は乗船中の時間のすべてを費やした。
だが、吐き気には、武術の修業も精神の集中も、何の効き目もなかった。
空は晴れている。
海の彼方に、半島がくっきりと見える。
八月の空である。
海の風は強く、心地よかった。
しかし、大海人はそれどころではない。
「まだ、慣れませぬかな」
阿倍は笑みを浮かべて言った。
船酔いには、慣れるしかないということを、阿倍はよく知っている。
大海人だけではなかった。
兵士のうちの大半は、これまで船に乗ったことのない者たちである。
阿倍が指揮する後軍は、まだ経験者が多い方だ。
これが前軍・中軍になると、関東から召集された兵もいて、経験者はまったくいないといってもよかった。
兵士の一人が吐くと、それにつられて吐き気をこらえていた者が吐く。また、それにつられる者がいるという悪循環である。
早く陸地に上がりたい——それが大半の兵士の願いだった。
海から白村江に入れば、河岸に上陸して少し兵を休ませようと、誰もが考えていた。
ところが、そんな思惑は、船が河口に近付くに従って、あっという間に吹き飛んだ。
「敵だ!」
兵士たちが口々に叫んだ。
河口の少し奥に数百隻にものぼる船団がいた。
船団には色とりどりの旗が、おりからの強風になびいている。
「戦に備えよ」
各船団に軍令が発せられた。
しかし、兵たちは泡を食っていた。
海の上で戦うなど、考えたこともなかった。
その上、船酔いで、ほとんどの兵士が万全な体調ではなかった。
本来なら、ここでいったん敵との衝突を避け、近くに上陸するという手もあった。
しかし、ここで日本軍の致命的な弱点が出た。指揮系統が一本化されていないため、そう判断しても、誰もその命令を全般に徹底させることはできなかったのである。
結局、船団は当初の方針のまま、陣形も整えずに、逐次白村江に突入することになった。
もう、流れを誰も止められない。
しかも、唐・新羅連合軍は、いきなり攻め寄せようとはせず、むしろ河口の奥に引いて日本船団を引き込む作戦をとった。
(まずい)
大海人は船の上から河口を見ていた。
敵の考えを見抜いたのである。
(火攻めにする気だ)
風は陸から海に向かって吹いていた。
敵は風上にいる。
味方の船団が河口に入り、船と船との間隔がせばまったところへ、火をかけるつもりだろう。
火矢を飛ばせばいいのだ。
船は密集している。
一隻でも燃え上がれば、火の粉が飛んで次々に類焼するだろう。
この晴天である。
雨の降る様子はまったくない。
火攻めは確実に成功する筈だ。
「将軍!」
大海人は叫んだ。
阿倍がやってきた。
「今、引き返すか、それとも一気に敵の懐ろに飛び込むか」
いわば死中に活を求める策であった。敵との距離が縮まれば、敵はうかつに火は放てない。さらに近付けば、敵を直接叩くことができる。
「手遅れです」
阿倍は絶望的に首を振った。
「なぜだ」
血相を変えて大海人は詰め寄った。
「船は猪と同じ、前には進むが、後ろへは容易に動けませぬ」
「では、突っ込め」
「それもなりませぬ」
「——?」
「敵の船は速い。われらの及ぶところではございません」
一斉に銅鑼の音が鳴り響いた。
それを合図に、おびただしい火矢が敵から射られた。
まるで悪夢を見ているようだった。
日本側の箱型の船が次々に燃え上がった。まるで紙を燃やすように、簡単にである。敵を討つどころではなかった。
敵と遭遇した瞬間から、日本側は消火に追われ、矢を放つ暇もなかった。
勝敗の帰趨は既に明らかだった。
「将軍」
大海人は、吐き気も忘れて、再び阿倍に呼びかけた。
「どうにもならんのか」
「どうにもなりません」
阿倍は冷静だった。
このまま突っ込んでいっても、味方船団に前方をさえぎられて身動きが取れず、攻撃は出来ない。
しかし、射程の長い敵の火矢は届くかもしれない。そうなったら、手も足も出ないうえに一方的に焼き討ちされることになる。
「では、どうする」
大海人も冷静になった。
どう見ても、この戦は勝てない。
「焼け出された者を助けましょう。助けたら引き上げるしかなさそうですな」
阿倍は河口を見た。
いまや日本側の船は、その大半が燃え上がっていた。