「——というわけでございまして、皇太子《ひつぎのみこ》様は新羅と誼《よし》みを通じることを、断固として拒まれたのでございます」
と、鎌子は大海人に言った。
「なぜ、わしのところへ」
大海人はけげんな顔をした。
「わたくしは、あなた様が新羅との絆《きずな》になって頂ければと思っておりましたのです」
「わしが?」
「はい。新羅との仲を保つには、あなた様ほどふさわしい方はおられませぬ」
「わしが、新羅の血を引くからか?」
大海人は落ちついた声で言った。
そのことを恥に思ったことは一度もない。
鎌子は頭を下げて、
「むろん、そのこともございます」
「だけではないのか?」
「はい、何よりも、あなた様は偏《かたよ》りのない目で物を見ておられます」
「——」
「この未曾有の国難にあっては、偏りのない目で物事を見ることが何よりも大切でございます。憎しみや贔屓目で物事を判断することは、国を誤るもととなりまする」
「わしに、その偏りのない目があると申すのか」
「はい」
「それは買いかぶりだ」
「いえ、あなた様は、新羅の血を引かれておりながら、必ずしも新羅贔屓ではございませぬ」
「そうかな」
大海人は、胸に手を当てて考えてみたいと思った。
自分は、新羅人の血を引いている。しかし、日本人として育ってきた。
新羅、百済、高句麗の三国のうち、どこが好きかといえば、新羅である。だが、百済、高句麗も、特別嫌いというわけではない。
その点、「兄」の中大兄とは違う。
(それが偏りのない目と言えるのかどうか)
大海人は自問自答した。
鎌子は、そんな大海人の様子をじっと見つめていた。
「——そなたは、これからのわが国をどのように考えている?」
我に返った大海人は、鎌子にたずねた。
白村江の敗戦以来、そのことをぜひ語り合いたいと思っていたのだ。
鎌子ほど物の見える男は、この国に他にはいない。
「——わたくしは、そのために、新羅との絆が必要だと思っておるのでございます」
「いずれ、唐と仲違いすると見ておるのだな」
「はい、かの国は、そもそもわが国を狙ったことは一度もありませぬ。唐と結んだのは止むに止まれぬことで、百済に続いて高句麗がなくなれば、おそらく獲物の取り合いを始めるでしょう」
と、鎌子は中大兄に言上したことを繰り返した。
「その時のために、今から手を打っておけと申すのだな」
「はい、今のうちに手を打つべきと考えております」
鎌子は身を乗り出して、
「あなた様御自身に、新羅に行って頂くのが最もよいと思っておりました。しかし、皇太子様のお許しがない以上、それも叶いませぬ。このうえは、ぜひともこの国のうちで新羅の方々との縁を固めて頂きたいと思っております」
大海人は鎌子が何を言いたいのか、よくわかった。
「——父上のことか」
鎌子はうなずいた。
「——それでは、ますます皇太子様の憎しみを買うことになるな」
大海人は苦い笑いを浮かべた。
新羅嫌いの中大兄が、もしそんなことに気が付いたら、ますます嫌われることになる。
「申しわけございませぬ」
鎌子は頭を下げた。
「やらねばなるまいな」
逃げる気はなかった。
捨て石になるかもしれない。しかし、これは誰かがやっておかねばならないことなのだ。