何もかもが、唐の侵攻に備えての軍事費に転用された。
税が重くなっただけではない。一家の働き手が徴兵されるようになって、農作業の人手が足らなくなった。それなのに、年貢は重くなったのである。それをこなすためには、朝から晩まで働かなければならない。
怨嗟《えんさ》の声は世に満ち満ちていた。
そんななか、大海人は都を離れていた。
大宰府移転および水城などの城の築造を監督することを、中大兄から命じられたのである。
大海人は労役に狩り出された人々と共に、額に汗して働いていた。
皇族の身ではあるが、生まれてから数十年間平民として育った大海人には、ただ人が獣のように使役されるのを見るに忍びなかったのである。
人々は大海人に服した。
都なら、皇族の身分をわきまえぬ下卑たふるまいという悪評もたっただろうが、ここは九州である。
うるさいことを言う連中はいない。
大海人はその日も炎天下、上半身裸になって鍬《くわ》をふるっていた。
見渡せば、この筑紫平野の出口にあたるところが急に狭くなっている。
水城はそこに築かれつつある。
総勢数千人もの人間が、大地に蟻のように取りついて働いていた。
「御精がでますな」
声をかけられて、大海人が顔を上げると、そこには、四十過ぎのやや小太りの男が、陽に焼けた顔に微笑を浮かべていた。
「これは、栗隈《くりくま》殿」
大海人は汗をふいて、会釈した。
大宰府の副官として派遣されている栗隈王だった。
「王」は天皇の孫以下を表わす称号だから、大海人よりは身分が下なのだが、大海人はこの栗隈王に好意を持っていた。こんな辺地に来た皇族は、みんな顔が都の方を向いているものだが、栗隈王は違っている。
「皇子《みこ》様の陣頭に立ってのお働き、いつも感服致しております」
栗隈は言った。
「なに、育ちが悪いのでな」
大海人も笑って、とりあえず鍬を置いた。
「また、唐使が来るようですな」
栗隈王は言った。
「また?」
大海人は緊張した。
「郭という男か」
「いえ、それより上の大使|劉徳高《りゆうとくこう》という男だそうです」
「早耳だな」
大海人は感心した。
「それがつとめでございますから」
「何をしに来るのだ?」
「やはり、この国の様子を探りにでございましょうな」
「攻める前の瀬踏みというわけか」
「事と次第によっては、そうなりましょう」
大海人は溜息をついた。
日本は、中大兄の方針により新羅との友好の道をすべて絶った。
あとは高句麗に頑張ってもらうしかない。
しかし、高句麗との友好の道も閉ざされていた。
日本から使者を送るには、半島を縦断するか船で直接行くかしかないが、その途中には新羅がでんと構えている。
ここを巧みにすりぬけて行くことなど不可能である。
しかし、高句麗は北に唐、南に新羅の挟みうちを受けながら、何とか持ちこたえている。
だからこそ、日本は防備態勢を固める暇があったのだ。
しかし、再び唐の使いが来たということは——。
「まさか、高句麗が敗れたのではあるまいな」
大海人は、この真夏に冷汗をかいて言った。
「いえ、まだでございます。そう聞きました」
「そうか」
大海人は、ほっとした。
「——で、皇太子様は、今度の使者は接見なさるおつもりか」
「さあ、それが——」
栗隈王は言葉を濁した。
(何かあるな)
大海人は嫌な予感がした。