呆気《あつけ》ない死だ。
「死んだのか——」
中大兄は実のところ、彼女の存在を忘れていた。
「はい、朝おめざめの後、胸が苦しいと仰せられ、水をお取り寄せになったのですが、そのまま呆気なく」
女官の樟葉《くずは》は涙ながらに言上した。
「そうか」
中大兄は別に涙が出て来なかった。
樟葉は、中大兄がそれ以上何も言わないので、不審な顔をした。
「——あの」
「何だ。もう帰ってよいぞ」
「——皇太子様は、お出ましにならないのでございますか」
「多忙なのだ」
中大兄は言った。
実際そうであった。
唐との戦《いくさ》に備えて、やることは山積していた。
内政の充実、軍備の拡張、唐との折衝——私事に時間を割いている暇はない。
樟葉は怒りの色を浮かべた。
「皇太子様、太后《おおきさき》様がお隠れになったのでございますよ」
それがどうした、という眼で中大兄は樟葉を見た。
「お別れなさるのが作法ではございませぬか」
「葬《とむら》いはする。立派な陵《みささぎ》も造ってやる」
中大兄は面倒臭そうに言った。
そんなことではございません。喉元まで出かかった言葉を、樟葉はかろうじて呑みこんだ。
(なんと情の無い御方であろう)
中大兄はそのまま席を立ち、奥に入った。
(おかわいそうな、太后様)
樟葉は流れる涙をぬぐおうともせず、その場を去った。
戻ってみると、大海人が館にいた。
「まあ、あなた様は」
樟葉は目をみはった。
「このたびは突然のことで、お悔み申し上げる」
大海人は頭を下げた。
「いつ、筑紫《つくし》からお戻りに」
「つい、先程な。館に帰ってすぐに、知らせを聞いた」
樟葉は、大海人の姿が旅塵にまみれているのに、気が付いた。
旅装も解かずにここへ来てくれたのだ——樟葉は、中大兄のところでとは違う涙を流した。
「では、これで失礼する」
大海人は言った。
死者と対面するのは近親者に限られる。
大海人も異腹の兄だから、会う資格があるが、相手が皇后の位に昇った女性でもあり、遠慮したのである。
樟葉も強いて対面を勧めなかった。
大海人は辞去した。
樟葉は死者の永眠する部屋に戻った。
太后は、なにかほっとしたような表情をしていた。
それを見て樟葉は、また涙がこぼれてならなかった。