「唐使を、都へ招くぞ」
中大兄は、大海人を呼び出すと、いきなり決定を伝えた。
大海人は黙って頭を上げた。
そのことは、栗隈王から聞いていた。
中大兄は、この前やって来た唐使郭務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]は大宰府で応対し、畿内に入るのは許さなかった。
それは、恐怖のためだ。
唐は侵攻のために、日本を偵察に来たのではないかと、中大兄は疑ったのである。
そういう使者を、国内に入れ、国土を縦断させるなど、とんでもないという思いがあった。
しかし、唐は再び郭の上官である劉徳高を派遣して来た。
こうなると、中大兄も大宰府で応対するというわけにはいかない。
「唐使はどこまで来ている?」
中大兄はたずねた。
「おそらく、明日は熟田津《にきたづ》あたりかと」
大海人は答えた。
那大津《なのおおつ》を出た唐の軍船は、四国の熟田津を経由して、難波の港に入るはずだ。
大海人はその経路を先行して都にやって来たのだ。
熟田津で、唐使は接待にかこつけてしばらく足止めを食らうはずだ。
その間に、中大兄は、あることを準備していた。
それは畿内の軍団の大動員である。
畿内だけではなく、東国からも兵士が徴発され、続々と集結しつつあった。
それを中大兄は山背国の宇治郡に導いた。
山科《やましな》から宇治にかけての地は、川沿いに平地が多く、大軍が集結するには適している。
中大兄は狩りが好きで、山科方面には何度も行っているので、そのあたりのことはよく知っていた。
「きゃつらが来たら、宇治へ招く。あのあたりに桟敷を設け、わが国の力を見せつけてやるのだ」
(やはりそうか)
大海人は嫌な予感が適中したのを知った。
中大兄は、唐使を都に入れるにあたって、軍団を動員し示威しようとしているのだ。
「どうした、浮かぬ顔だな」
大海人の表情を見て、中大兄はすかさず言った。
「——いえ、別に」
「そなたには槍の舞いを見せてもらわねばならぬぞ」
中大兄は言った。
「槍の舞い——」
大海人は思い出した。
初めて中大兄が自分の館に来た時、槍の演武を見せたことを。
このために、中大兄は大海人を「利用」しようという気になったのだ。
今度も利用されるらしい。
唐使へ、日本にはこんな武勇の士がいると、見せるつもりなのだ。
「よいな。しかと頼んだぞ」
それだけ言うと、中大兄はもうそっぽを向いていた。
舎人が決裁を求める書類を持ってきたのだ。
「どうした? 下がってよいぞ」
中大兄は冷やかに言った。
大海人は一礼して外へ出た。
(本当にこれでいいのだろうか)
馬に乗って館に戻る途中も、大海人の心は晴れなかった。
中大兄は、いま日本を危険な道に導こうとしているのではないか。
白村江では負けた。
唐の力に、日本は史上初めての大敗北を喫した。
その唐を恐れるのは理解できる。
確かに、唐の力を無視しては、これからの日本は立ち行かない。しかし、だからといって、その巨大なる力に対して子供のように背伸びをして見せて、一体何になるというのだろう。
むしろ、場合によっては、唐に恭順する姿勢を見せることすら必要ではないか。
もちろん万一の場合、唐が侵攻してきた時には、徹底抗戦も止むを得ないかもしれない。
そういうことにならないように、ある程度軍事力を見せておくことは必要には違いない。
だが、刺激してはまずい。
この先、大陸と半島の情勢はどう転ぶかわからない。
(唐とも、手切れになってはまずい、というのに)
大海人はそのまま帰る気がしなかった。
(鎌子のところにでも寄ってみるか)
ふとそう思った。
そう言えば、都に戻ってまだ一度も鎌子と顔を合わせていない。
大海人は馬首をめぐらせた。