「どうしたのだ?」
大海人は顔色を変えた。
「いえ、大したことではありません」
鎌子は病いの床から、あわてて身を起こしたが、大海人は進み出てその肩に手を置いた。
「休むがよい」
「いえ、このままで」
鎌子はそう言ったが、すぐに激しく咳き込んだ。
「病人は身体《からだ》を大切にせねばならぬ」
大海人は鎌子を寝かせた。
「この危急の秋《とき》に申しわけもございませぬ」
「なに、今は身体をなおすことだ」
大海人は帰ろうと思った。
病人の心を乱しても始まらない。
「お待ち下さい」
鎌子は呼び止めた。
「何だ? 休むのが一番だぞ」
「いえ、ぜひ申し上げておきたい儀が——」
鎌子がまた身を起こそうとしたので、大海人はあわてて歩み寄った。
「そのままでよい、申してみよ」
「——こちらも唐へ使いを出すべきでございましょう」
鎌子は言った。
その表情には、病いの苦痛が現われている。
「それはもうそなたが何度も言ったことではないか」
大海人は、それを耳にしていた。
鎌子は、中大兄に、唐との連絡をつけるため、使者を出しておくべきだと、提言していたのである。
「いえ、今度の唐使の入京を迎えてのことでございます」
「うん?」
大海人は首を傾げた。
鎌子の言う意味がよくわからない。
「答礼でございます」
「答礼?」
「はい。はるばる唐からの使いが、わが国の都まで来てくれたのですから、当方も当然、答礼使を差し向けなければなりません」
「——そうか」
大海人は合点した。
鎌子は、答礼使にかこつけて、唐へ使者を出し、そのことによって唐との誼《よし》みを通じろ、と言っているのだ。
「わかった。——だが、納得されるかな」
大海人が言ったのは、もちろん中大兄のことである。
「——説得のやり方によっては」
「どうする?」
大海人はたずねた。
こういう時には、なまじ考えるより鎌子の知恵に頼るのが最もいい。
「——皇太子様は、唐の力を見たいと思し召されておるはず」
鎌子は苦しそうに、
「それゆえ、答礼使を出すことは、唐の出方を探る格好の手段となることを、申し上げればよいと存じます」
「なるほど」
大海人は感心した。
つまり、中大兄には、唐へ「答礼」するのではない「偵察」するのだ、と言って説得しろというのだ。
これなら、中大兄も話に乗るだろう。
中大兄は、唐と一戦を交えることも辞さないつもりなのだから。
「では、これからすぐにでも参内致そう。善は急げと申すからな」
大海人は大きくうなずいた。
「申しわけもございませぬ」
鎌子は謝った。
本来なら、大海人の手をわずらわせずに、自分が行くべきところなのだ。
「よく気が付いてくれた。安心して休め」
大海人はそう言って、再び馬上の人となった。
「何だ、また何か用か」
中大兄は大海人の顔を見ると、不快そうに言った。
「ぜひとも申し上げたき儀がありまして、無礼を省みず参上致しました」
大海人は中大兄の顔を直視して言った。
「言いたいことがあれば、早く申せ。わしは忙しい」
「では、申し上げます」
中大兄は、大海人の方を見ずに書類に目を通していた。
「今度、唐使が帰る時に、こちらも答礼使を派遣すべきだと存じます」
それを聞いて、中大兄は意外な顔をして目を上げた。
「答礼じゃと」
「はい」
「何を申すか」
中大兄は怒って、
「かの国は敵国だ。敵の国に答礼など要らぬ」
と、大海人をにらみつけた。
「答礼ではございません」
大海人はあくまでも冷静な声で言った。
だが、その態度に中大兄はますます怒って、
「なんだと、いま、その口で答礼と申したではないか」
「答礼は仮の姿ということでございます」
「仮?」
中大兄は、今度はけげんな顔をした。
「はい。答礼にかこつけて、かの国の動向を探って参るのでございます」
「——」
「答礼使とあれば、かの国も歓迎しないわけにはいきますまい。すなわち、様々なことが探り出せるのではございますまいか」
大海人は言った。
中大兄は書類を置いて、しばらく考えていたが、
「——名案だな」
「答礼使には、ぜひわたくしを」
大海人は熱意を込めて言った。
本心である。唐の都をこの目で見てみたいという思いもある。だが、最も強いのは、この国のために唐の人々と交わっておきたいということだ。
「それは、だめだ」
にべもなく中大兄は言った。
「なぜです」
「そなたはいつもわしの側近くにいて、わが身を守ってもらわねばならぬ」
中大兄はむりやり笑みを浮かべ、
「そなたは槍の名手だからな」
「行ってはいけませぬか」
「ならぬ」
中大兄は大声で決めつけると、声を落として、
「そのような使いには、罪を得た者でも送っておけば充分であろう」
「罪人を?」
「そうだ。罪を許してやるといえば、死にもの狂いで働くだろう」
中大兄はそう言って、
「守君大石《もりのきみおおいし》などよかろう」
「大石でございますか」
その名は、大海人も知っていた。小錦《しようきん》の位にあったが、罪に連座し拘禁されているはずだ。
(だが、適任ではない)
大海人は秘かに思った。
罪人が赦免を条件に働くとなれば、中大兄の意を迎えることに、全力を注ぐはずである。
だが、この役目は、冷静に公平に物を見て、諫言することも恐れてはならない。
そんな役目が、大石につとまるはずもない。
「どうした? 何か不満があるのか」
中大兄は言った。
「いえ」
大海人は言葉を呑み込んだ。
「不満があるなら、言え」
中大兄は催促した。
またか、と大海人は思った。
その言葉に従って、不満を言ったところで、中大兄には改める気は毛頭ないのだ。
ならば、言うだけ無駄というものである。
しかし、大海人はそれでも言った。
大石が適任でないこと、そして、その理由をである。
再び中大兄は怒った。
「下らぬ心配をするな」
「はっ」
大海人は頭を下げた。
「きゃつらの相手は、罪人がちょうどいいのだ」
中大兄は言い切った。
大海人は失望の念を新たにした。