大海人と朱堅が試合をするとなれば、座興では済まなくなる。
劉は一瞬、とまどいの色を見せた。
「気がすすまぬのか」
中大兄は軽く挑発するように言った。
劉は朱の方を見た。
朱は無表情でうなずいた。
「お受け致しましょう」
劉は言った。
「そうか、受けられるか。さすが大国の使者じゃのう」
中大兄は笑みを浮かべて、大海人を見た。
「では、一手教えてもらえ」
そう言った目は、まったく笑っていなかった。
(——勝手なお人だ)
大海人は文句を言いたかった。
この試合、勝っても負けても、具合が悪い。
勝てば唐使の一行は機嫌を悪くするだろうし、負ければ日本の恥だ。どちらに転んでも、いいことはない。それなのに、中大兄はやれという。
勝つことを望んでいるのだろう。
しかし、勝てばいいというものではないし、第一、勝てると決まったものでもない。
朱堅という男はかなりの使い手である。
一般に剣と槍では、槍の方が有利とされているが、その利を生かせるものかどうか、大海人は自信がなかった。
が、やらねばならない。
大海人は広場に進み出た。
朱も進み出た。
両者はまず上座に一礼すると、今度は面と向かって一礼した。
その時、大海人は初めて朱の眼光を見た。
深い海の底を見たように思った。
ぎらぎらするものはない。だが、それだけに得体の知れぬ不気味さがある。
「いざ」
大海人は声をかけた。
「応《おう》」
朱は短く言った。
そのまま動かない。
大海人が仕掛けるのを待っているのだ。槍を相手にする場合、これは決してまずいやり方ではない。
(ではお手並み拝見といくか)
大海人はわざと大声を張り上げ、槍を少し加減して突き込んだ。
朱が、にやりと笑ったように見えた。
(——!)
気が付くと、朱はそこにはいなかった。
大海人はあわてて、槍をはらうようにし、左に飛んだ朱の足を狙った。
穂先を使えば、相手に怪我を負わせてしまう。血を流さずに勝つには、この手しかない。
だが、朱はそれを予期していたのか、今度は飛び上がった。
(おのれ)
大海人は手加減する必要がないのを知った。
それどころか、このままではとても勝つことなど覚束ない。
(よし)
大海人は思い切って本気で突いてみた。
もちろん、急所ははずした。
がつん、と初めて手応えがあった。
朱が剣で受けたのである。
受けた時、目と目があった。
朱が何か言ったように、大海人は感じた。
「それではこちらからも参りますぞ」とでも言ったのか。
朱の鋭い一撃が来た。
大海人は槍の柄でこれを受けた。
受けると同時に肝が冷えた。
大海人は、槍の柄には丈夫な樫を使い、鉄の鎖を巻いている。
それがなければ、朱の一閃に柄は両断され、大海人は脳天を斬り割られていただろう。
朱はつづいて、左と右から二回攻めて来た。
大海人は、なんとかこれをかわした。
そこで斬撃が止まった。
(そうか)
大海人は、その理由《わけ》を悟った。
こちらの攻撃回数に合わせて、向うも攻撃をしてくるのだ。
(それならば——)
大海人は一度撃ち込み、相手の攻撃を待った。
朱も大海人の考えを理解した。
わざと声を出して、朱は一回だけ撃ち込んできた。
こうなれば、話は決まった。
大海人と朱は交互に撃ち合いを始めた。
傍目には、両方が真剣に戦っているように見えただろうが、実は二人は演武を見せていたのだ。
打ち合わせなしの演武であった。
十合以上撃ち合うと、さすがに両者とも息が切れてきた。そして、どちらからともなく離れて見合った。
機をうかがっていた劉が立ち上がった。
「これまでと致しませぬか」
その言葉は、通辞から中大兄に伝えられた。
「よかろう」
中大兄はうなずいた。
勝負は引き分けとなった。
(よかった)
大海人はようやく肩の力を抜いた。
朱も初めて笑みを浮かべた。