新都に最も適した地について、中大兄は百済人の意見を大いに参考にした。
内陸で、敵が上陸しても、しばらく持ちこたえることができる地。そして、いざとなれば再起をはかるために脱出しやすい地でなければならない。
琵琶湖のほとりの大津こそ、その地にふさわしいと、中大兄は思った。
だが、廷臣は反対した。
都は畿内を出ないという不文律がある。
近江は畿内ではない。廷臣は前例のないこととして、猛反対したのである。
「そなたはどう思う」
大海人は鎌足《かまたり》に聞いた。つい先頃、鎌子は鎌足という名に改めていた。
「——畿内を出る出ないは、どちらでもよいことかと存じます」
このところ鎌足は健康を損ねていた。顔の色もよくない。
(力の無い声だな)
大海人は答えより、そちらの方が気になった。
「いかが思われます」
大海人が反対を示さないので、鎌足は逆に聞いてきた。
「うむ」
大海人はうなずいて、
「わたしもそう思う」
「やはり、左様思われますか」
「畿内を出るかどうかなどは、ささいなことに過ぎない。大切なのは、今、都を遷すことが正しいか否かだ」
「その通りでございましょう」
鎌足は頭を下げて、
「確かに、唐と事を構えるならば、あの地に遷すことは悪くございません。大軍を防ぐことも出来ましょうし、いざとなれば湖《うみ》に舟を浮かべ東国に逃れることも出来ましょう。されど、そもそも、唐との大戦《おおいくさ》を避けるべきだというのが、わたくしの考えでございます」
「わたしも同じだ」
大海人は、わが意を得たとばかりに、うなずいてみせた。
「この国の行く末が案じられてなりませぬ」
鎌足は暗い顔をして言った。
中大兄に対する怨嗟《えんさ》の声は、さらに厳しいものになっていた。
新都造成には金がかかる。都には新しい官衙《かんが》が必要だ。
そればかりではない。中大兄は寺も建立した。
崇福《すうふく》寺という大寺を、都の北に建てたのである。旧都の寺から無理矢理に仏舎利を召し上げ、崇福寺に収めさせた。寺の権威を上げるためだったが、取られた側は当然中大兄を憎み、他の寺々もこれに同情した。
そんな中、信貴山《しぎさん》では、新羅《しらぎ》の間諜|道行《どうぎよう》法師が配下を集めていた。
「皇太子は来年正月、いよいよ即位するらしい」
道行は全員を見渡して言った。
全員の顔に緊張が走った。
これまで中大兄は、あくまで皇太子のまま政務をとっていたが、新しい都へ遷ったのを契機に、帝の位に即く決意を固めたのだ。
それは中大兄が即位の礼のための様々な準備をしていることから、既に明らかであった。
道行は配下の間諜を使い、探り出していたのである。
「さて、そこでだ」
道行はもう一度全員を見渡すと、
「中大兄の即位は、われら新羅にとっては良いことではない。中大兄は、百済《くだら》贔屓だ。われらの国を敵と見ておる。そこで、われらは為さねばならぬことがある」
配下の者たちは、食い入るように道行の口元を見つめていた。
「中大兄の即位を妨害するのだ」
道行は低い声だが、はっきりと言った。
配下の者たちは、驚いて顔を見合わせた。
「頭《かしら》、一体どうやって?」
沙摩《さま》が尋ねた。
沙摩は道行配下のうちでは、最も手練《てだれ》である。
「日本に三種の神器というものがある——」
道行は言った。
このことは多くの者が知っていた。
道行の配下は、いずれも三年以上日本に住んでおり、日本語が達者な者ばかりである。
「鏡と剣と玉だ。この三つが揃わねば、正統な王者とは言えぬ」
「——では、頭?」
「そうだ。その一つを盗み出す」
道行の言葉は、また全員を驚かせた。
神器は都の王宮の奥深くに、厳重な監視のもとに保管されているはずである。
それを盗み出すというのか。
「安心しろ。わしの調べでは、剣だけは尾張の国の熱田《あつた》という社に保管されている。それが即位の礼に使うために、熱田から都へ運ばれる。その道中を狙うのだ」
道行は自信たっぷりに、
「この国の者は、まさか神器が狙われるとは夢にも思っておらぬ。祟《たた》りがあると信じておるからだ。したがって護衛の兵もわずかだ。寝込みを襲えば、まちがいなく奪うことができる」
「で、その後は?」
今度は別の配下の者が聞いた。
「知れたこと。この国から持ち出し、われらの王に献上するのだ。神器の剣はこの国の兵《つわもの》の力を示すもの。なくなればあわてるぞ」
道行は、にやりと笑った。
「で、いつやります?」
「それはな——」
道行が膝を乗り出した時、背後から声がかかった。
「待て」
道行は驚いて振り返った。
そこには、笠の武人が立っていた。
もちろん、きょうは、笠はとっている。
総髪の堂々たる偉丈夫である。
「これは、沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様」
道行はあわてて、そちらを向いて頭を下げた。
「わしは左様なことを命じた覚えはないぞ」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]と呼ばれた男は言った。
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]とは新羅の貴族の位の一つである。
「——ははっ」
道行は床に頭をすりつけた。
「何を考えておるのだ、そちは」
「——」
「われらがこの国の王権の象徴たる剣を盗み出したりすれば、この国とわれらの国はもはや二度と友誼を結ぶことはかなわぬぞ」
「——」
「どうした、何か言いたいことあらば、言ってみよ」
「——では、申し上げます」
道行は肚《はら》をくくって頭を上げた。
「中大兄は、われらの国とは永遠《とわ》に友誼を結ぶつもりはございません」
「だから、どうした」
「ならば、早いうちに中大兄の力を失墜させ、その没落をはかるのが、上策でございます」
「それで神器を盗むというのか」
「はい」
「たわけ者」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は怒鳴りつけた。
道行は縮み上がった。
「神器の一つや二つ盗んだところで、皇太子の力は衰えぬぞ。われらの仕業とわかれば、かえって、ますます厄介なことになる」
「われらの仕業とはわかりません」
「なぜだ」
「われらはあくまで正体を秘し、そのままわが国へ持ち帰るのですから」
「わかったら、どうする?」
「けっして、わかりませぬ」
「この、強情者め」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は呆れて、
「なぜ、そこまで強硬な手を使わねばならぬのだ」
「沙※[#「冫+食」、unicode98e1]様、われらの国は今、存亡の危機に瀕しております」
「左様なことは、わかっておる」
「いや、わかっておられませぬ。いずれ、唐は日本と誼《よし》みを通じ、わが新羅を挟撃せんとはかるでしょう。ならば、今のうちに新羅嫌いの王を廃し、新羅に好意を持つ者が王位に即くよう計らうべきと存じます」
「そのような者の心当りがあるのか」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]の問いに、道行は見返して、
「——大海人皇子様、あなた様の御子息にございます」
「——」
「あの御方がこの国の王となれば、わが国にとっても、これほど好ましいことはございませぬ」
「——」
「いかがでございましょう」
「——それはわからぬでもない」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は、うめくように言った。
「わしとて、人の子の親だ。わが子の栄達を望む心はある」
「ならば——」
「いや、待て。だが、神器を盗むことが果たして、あの者のためになるであろうか」
「——?」
「そちは、われらの仕業であることを隠すと言った。だが、それでは逆に、あの者が疑われるかも知れぬ。今、ここで皇太子を刺激することは、かえって国内の新羅を好む者の立場を悪くせぬか」
道行は黙っていた。
確かに、道行はそういう考え方をしたことはなかった。
「では、どうせよ、と仰せられる」
道行は改めて聞いた。
「ここは静観するのが一番良いとみた」
「静観?」
「左様、何事もなさず、ただ待つのも兵法のうちじゃ。なまじ動くことによって、かえって立場を悪くすることがある」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は、さとすように言った。
「それでは、中大兄は倒れませぬ」
道行は叫んだ。
「いいや、倒れる」
「何故でございます」
「皇太子の無理な施策により、民の怨嗟の声は満ちているではないか。道琳《どうりん》のことを思い出せ、道行」
道琳とは高句麗《こうくり》の間者で、この世界では伝説的な存在だった。道琳は罪を得たと称して百済へ流れて行き、特技の碁をもって百済王に仕えた。そして碁好きの王のお気に入りとなった道琳は、ある日献言した。
宮殿も諸陵も、国の繁栄に比してあまりにみすぼらしいから大修復をすべきだ、というのだ。
王はこれを受け入れ、本当に大工事を起こした。
そのためには、重税を課し、人民を徴発せねばならなかった。
数年後、確かに国の施設は整えられたが、人々は重税に疲れ、王を怨む声は世に満ちた。そこで道琳は、このさまを故国高句麗に告げ、軍を手引きした。首都は呆気なく落とされ、王は高句麗軍の手によって殺された。道琳というたった一人の諜者の働きで、百済は一時亡国寸前まで追い込まれたのである。
これは何十年も昔の話だが、韓半島では誰もが知っている有名な話でもある。
もちろん、道行もこのことは知っていた。
「道琳の如くせよ、それこそがわれらの取るべき道だ」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は言った。
道行は抗弁しようとしたが、沙※[#「冫+食」、unicode98e1]の堂々とした態度に気押され、黙り込んだ。
「よいな」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は去った。
配下の者たちも、道行を気の毒そうに眺めながら、一人また一人とその場を去った。
(だが、わしはやる)
一人残された道行は、決行の決意を固めていた。