昔、ヤマトタケルが賊に襲われ火攻めにあった時、この剣をもって野の草を切り払い、火勢の方向を変えて助かったことから、この名がある。
この剣は、収められていた尾張の熱田の社を出た。
神官による荘重な渡御《とぎよ》式が行なわれた後、剣は箱に収められたまま長持に入れられ、棒をわたして前後で人がかつぎ上げた。
行列は全部で十人ほどで、日の出から日没まで歩き、そのあとは泊る。行列を見た人々は道をあけ、頭を下げた。
この長持を奪おうとする賊などいない。
そんなことをしたら、草の根を分けても探し出されて極刑に処せられることは目に見えているからだ。
だから、警護の責任者の武麿《たけまろ》も、安心しきっていた。
第一、長持には厳重な錠がかかっている。そして、この鍵は武麿が懐に抱いているのである。
盗まれるはずがなかった。
道行は、その油断をついた。
初めの頃は、寝る間も不寝番を付けていた武麿は、都が近付くにつれ警戒をゆるめ、長持は宿舎の奥に放り出されたままのことが多くなった。
道行は宿舎に忍び入った。
相手が人間なら目覚めぬように用心せねばならないが、物言わぬ長持なら、その心配はない。
道行はやすやすと近付いた。
そして手燭をともして、見ることすら出来た。
錠を見た途端、道行は薄笑いを浮かべた。
(これが神器の錠か、他愛もない)
道行は、懐から太い釘のようなものを出すと、鍵穴に差し込み、数瞬後にそれを開けてしまった。
中には、つづらのような草で編んだ箱が入っており、さらにその中味は白銅の剣だった。
両刃《もろは》の剣で、長さは八握《やつか》ぐらいであろうか。
(これが神器か)
道行は手に取った。
確かに、質のいい銅は使っているが、海の向うに渡れば、いくらでもあるような剣である。
この程度の剣を「神器」とあがめたてまつるこの国の仕組みに、道行はあらためて軽侮の念を抱いた。
(さて、行くか)
道行は剣を布に包み、背に負うと、すばやく手燭を消し闇の中に消えた。
鍵は元通りかけておいた。
それでも中味の重さが違ったはずだが、武麿一行はまったく気が付かずに、そのまま都に入った。
中大兄は早速、一行を引見した。
「御苦労」
中大兄は笑顔で言った。これで三種の神器が揃い、めでたく即位の礼を挙げることができるのだ。
「箱を開けてみよ」
中大兄は言った。
まだ、神剣なるものを見たことがないのだ。
「ははっ」
武麿はかしこまって、長持の錠を開けた。
そして、一瞬の後、その表情は蒼白となった。
「どうした?」
声も出ない武麿を見て、中大兄は不思議そうに問うた。
「——ご、ございませぬ」
「何? 何がないというのだ」
武麿は、それは言えなかった。
中大兄は玉座を下りて、箱の中を見た。
その表情が変った。
「たわけ者」
中大兄は大喝した。
武麿は首をすくめ、床にはいつくばって詫びた。
「申しわけもございませぬ。臣の罪は万死に値します」
「そうか、万死に値するか」
中大兄は怒りで真っ赤になり、剣を持ってこさせた。
「ならば、死ね。死して罪をつぐなえ」
中大兄の剣が武麿の頭上に振り下ろされようとした時、割って入った男が止めた。大海人であった。
「何をする」
中大兄は大海人をにらんだ。
「お腹立ちでもございましょうが、ここは一つ、私に免じてお許し下さいませ」
「なんだと」
「それにこの者を斬ってしまえば、盗人を詮議する手だてがなくなります」
「——」
中大兄もこの理屈には参った。
確かに、今一番大切なのは、武麿を斬り殺すことではなく、神剣を取り戻すことである。
剣を引いた中大兄に、大海人は、
「では、よろしいのですね。この者は、わたくしがお預かりします」
「勝手にせい」
中大兄は吐き捨てるように言った。
「さあ、来い」
大海人は中大兄の気が変らないうちにと思い、武麿を引き立てて退出した。
庭まで来ると、武麿は再びその場にひれ伏した。
「——皇子様、かたじけのうございます。この御恩は一生忘れませぬ」
「よいのだ、武麿」
と、大海人は武麿の体を起こしてやり、
「それよりも聞きたい。神剣はどうやって盗まれたのか」
「それが皆目見当がつきませぬ」
武麿は首を振った。
「わからぬのか」
「はい、面目なきことながら、いつ盗まれたのかもわかりませぬ」
「錠には不審はなかったようだな」
「はい、鍵は肌身離さず持っておりました」
「では、鍵なしで開けたのであろう」
大海人が言うと、武麿はポカンと口を開けて、
「そのようなことが出来ましょうか」
「出来る。この国の者には出来ぬとしても」
大海人はうなずいた。
「では、唐の?」
「唐とは限らぬ。新羅もな」
大海人はそう言ったが、心の中では新羅の方がずっと怪しいと思っていた。
(だが、父上がこんなことをするだろうか)
今、中大兄を刺激することは、日本と新羅の将来にとってもまずいことだ。それがわからないのだろうか。
(いや、父上ならするはずはない)
大海人はそう確信していた。
(だとしたら、唐の仕業だろうか)
それもおかしい、と大海人は思った。
唐ならば、そんな姑息な手段はとらないはずだ。
(わからぬ)
大海人は首をひねった。
動機はやはり新羅の方にあるのだが、思慮深い父がこんな軽挙妄動をするはずがないのである。
しかし、唐でもないように思える。
詮議といっても、初めから暗礁に乗り上げたも同然だった。大海人はとりあえず中大兄に、あたりさわりのない報告をした。
中大兄は機嫌が悪かった。
怒鳴りつけられたが、仕方がない。
大海人も不快な思いを抱いて、宮殿を出た。
だが、犯人は思いもかけぬことから、白日の下にさらされた。道行の乗った新羅行きの船が嵐で難破し、道行は神剣と共に、日本の浜辺に打ち上げられたのである。