大海人は、神剣を盗み出したのが道行の仕業だと知らされた時、愕然となって椅子に座って天井を仰いだ。
(愚かなことをする)
今度は、大海人は怒りが込み上げてきた。
「これでは、皇太子がまた新羅を憎まれてしまうではないか」
虫麻呂がいた。知らせをもたらしたのは虫麻呂である。
「そうは思わぬか」
大海人は言った。
虫麻呂は無言でうなずくと、目を伏せた。
事はあまりに重大だった。
道行は、神剣と共に筑紫の浜に打ち上げられた。
間の悪いことに、神剣と共に、である。
道行だけ、あるいは神剣だけなら、まだましだった。道行も一緒だったために、これが新羅の犯行だということが、白日の下にさらされてしまったのである。
大海人は、かつて一度だけ会ったことのある道行の顔を思い出していた。
いかにも間諜らしく抜け目の無さそうな、捕まえようとしても捕まえ切れないような何かを持つ男だったが、それが一番間の抜けた形で捕まるとは、一体どういうことなのだろう。
「道行殿は、足を折っていたようです」
「足か——」
大海人は溜息した。
一方、中大兄は、事の次第を知ると大いに笑った。
「たわけめが」
確かに神剣を盗まれたことは不快だが、盗んだ者が脱出できずに捕まったことは、これ以上ない痛快な出来事であった。
「汚らわしい新羅の悪党に、神罰が下されたのじゃ」
中大兄はひとしきり哄笑すると、急いで命令した。
「その男を一刻も早くここへ連れて参れ。わしが直々に調べてくれよう」
足の骨を折り半死半生の道行は、馬にくくりつけられ都へ戻された。
中大兄は、宮殿の前庭まで、道行を連行させた。
「そちが、神器に手をかけた大悪党か」
中大兄は決めつけた。
道行は全身をきびしく縛《いまし》められ、前庭に座らされていたが、それを聞くと顔を上げて中大兄をにらみつけた。
「こやつ」
中大兄は怒り、舎人の手から杖《じよう》をひったくるようにして、道行を打ち据えた。
道行は激しい苦痛に耐えて、うめき声ひとつ漏らさなかった。
「しぶといやつめ、名を言え」
「——」
「どうした、臆《おく》したか」
「新羅の法師、道行にござる」
「道行か、では首領の名を言え。仲間は何人いる」
道行は再び沈黙した。
中大兄は再び狂ったように道行を打った。
道行はたまらず失神した。
「水をかけよ」
中大兄は舌打ちして命じた。
大海人もその場にいた。
同情はするが、助けるわけにはいかなかった。
道行は罪人である。神器を盗むという大罪を犯している。これではどうしようもない。
失神から覚めた道行を、中大兄はさらに問い詰めた。
「首領は誰だ」
「——」
「こやつ」
中大兄は、杖では普通打たないことになっている顔を、横から打った。道行の顔が血まみれになり、みるみるふくれ上がった。舎人が止めようとしたが、中大兄の見幕にあわてて引っ込んだ。
代って大海人が進み出た。
「おやめ下さい」
中大兄は怒りの表情で振り返った。
「なぜ、止める」
「それでは死んでしまいます。死ねば元も子もありません」
中大兄は、しばらく交互に二人の顔を見ていたが、
「——そうか」
と、深くうなずいた。
大海人は嫌な予感がした。
「わかったぞ」
中大兄は言った。
「何がおわかりになりました?」
大海人がたずねると、中大兄は無気味に笑って、
「おまえが、今度の一件の黒幕なのだな」
「何をおっしゃいます」
大海人は、あきれて叫んだ。
「いや、そうだ、そうに違いない」
「とんでもありません」
「では、そちは、この男のことを知らぬと言うのだな」
「——」
大海人は一瞬、答えをためらった。
道行は知らない仲ではない。それどころか、命を助けてもらったことすらある。
「どうした?」
「いえ、知りませぬ」
「嘘をつけ、この——」
「お鎮まり下さい」
それまで黙って見ていた鎌足が、見かねて止めに入った。
「皇子《みこ》様が新羅に通ずるなど、根も葉もないことでござります」
「なんだと、証拠があるのか」
中大兄は怒鳴った。
「皇子様が新羅と通じた確たる証拠がございましょうか?」
「それは——」
中大兄は返答に窮した。
「ならば無用の詮議はおやめ下さい。無実の者を罪に落とすことは、国の乱れのもとでございます」
中大兄は言い返せなかった。
「それより、新羅の諜者の口を割らせることが先決でございます」
鎌足は冷静な口調で、なだめるように言った。
気が付くと、道行は縛られたまま前に突っ伏していた。
「これ、目を覚ませ」
鎌足は道行の肩に手をかけ、その身を起こそうとして、驚いて前に回った。
「いかがした」
中大兄が言った。
「——事切れております」
鎌足は首を振った。
中大兄も驚いて道行に近付いた。
「おそらく、舌を噛み切ったのでございましょう」
暗然とした面持ちで、鎌足は言った。
道行の口の端から、確かに赤い血が流れていた。