鎌足はこのところ、そればかり考えている。
中大兄と大海人の不仲を、である。
中大兄は即位の式を挙げれば天皇となる。
その力は絶対だ。そして、その力をもって大海人を亡き者にしようとするかもしれない。
(いま、大海人皇子様に万一のことがあれば、この国は滅びるやもしれぬ)
それが鎌足の危惧であった。
中大兄は、強大な唐帝国と事を構える方向へ、この国を導こうとしている。その流れを押しとどめることのできる人間は、大海人しかいない。
だからこそ、なんとしてでも、大海人の地位を安泰たらしめたいのだ。
(わしも、もう長くはない)
鎌足はそう感じていた。
このところ、体が疲れやすく、ちょっとした傷がなかなかなおらない。
これは寿命が尽きかけたことのきざし[#「きざし」に傍点]ではないかと、鎌足は思っている。
体が壮健な頃は、野心に満ちあふれていた。
欲望も人一倍あった。
しかし、今は、ひたすらこの国が平和であることを願っている。
子孫のことを考えれば、そう思うのが当然かもしれない。この国が異国《とつくに》の軍隊に侵略されれば、多くの犠牲が出るし、国土は荒廃する。
その事態だけは、何としても防がねばならない。
どうすればいいのか。
中大兄と大海人の仲を保つためには、両者がより深い結び付きをすればいい。それには婚姻政策が一番だが、大海人には既に中大兄の娘が二人も嫁いでいる。あと一人を嫁がせるにしても、それだけでは万全とは言えぬ。
(そうだ)
鎌足は膝を打った。
そして、その足で大海人を訪ねた。
「どうした、何か変事でも?」
大海人は鎌足の思い詰めた顔を見て、そう言った。
「いえ。ただ、重大なお願いがあって参じました」
「ほう、何か」
「十市《とおちの》皇女《ひめみこ》様と大友皇子《おおとものみこ》様の、末永きお睦みの件でございます」
「なんと申した」
大海人は耳を疑った。
十市皇女は自分と額田王《ぬかたのおおきみ》との間に生まれた娘だし、大友皇子は中大兄の唯一の男の子ではないか。
「こう申せば、おわかりのことと存じます」
「わかる。だが——」
中大兄と自分との和を保つため、そこまでせねばならぬのか。かつて母の帝もこのことを言った。しかし、母が亡くなって以来、そんなことは忘れていた。あまりにも無理な話だからだ。
「ぜひとも、このお話は進めさせて頂きます」
「皇太子《ひつぎのみこ》様のお許しは出たのか」
出るはずはない、と大海人は思った。
もしもそうなら、話の切り出し方が違うはずだ。
「お察しの通り、まだ、お許しを頂いてはおりません」
「では、うまくいくまい」
大海人は初めから乗り気ではない。
要するにこれは、人質として十市を差し出すことになる。
「いえ、私が一身に代えましても、必ずまとめてみせます」
「——」
大海人は沈黙した。
むしろ、鎌足の健康が気がかりであった。
このところ鎌足は、いつも顔色が悪い。
「わが君、この話はお進めになるべきだと存じます」
突然、部屋に入ってきた女がそう言った。
|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》皇女である。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は姉の大田皇女と共に大海人に嫁いできた。共に中大兄の娘だ。
しかし、性格のおとなしい姉に比べ、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は激しい気性で、ときどき大海人も持て余すほどであった。
「聞いていたのか」
大海人は眉をひそめた。
「あれほどの大声を出されれば、どこにいても聞こえます」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は笑みを含んで言った。
「それほどの大声だったかな」
大海人は苦虫を噛みつぶしたような表情を見せて、鎌足に同意を求めた。
鎌足は、そうではないことはわかっていたが、あえて同意しなかった。自分の目的のためにその方が好都合と考えたのである。
「お妃様も御賛同下されて、幸甚に存じます」
次妃といっても、姉の大田皇女の方は最近病気がちだから、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が事実上の正妃と言っていい。その正妃の賛同を得られたのだから、鎌足にとっては都合がよかった。
「おまえはよいのか。十市を手放すことに、何も感じぬのか」
「娘はいずれ嫁に行くものです」
「しかし、十市はまだ幼い」
「わたくしだって、その頃、わが君のもとに参りました」
(それはそうだが——)
十市は額田の生んだ娘で、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野とはそれほど年が離れていない。自分の腹を痛めた子でないから、そう言えるのだろう。
大海人はそう思ったが、口には出さない。
代りに、次のように言った。
「よいのか。十市が嫁げば、また若い娘がここへ来るかも知れぬ」
「——」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は黙った。
若い娘が来るとは、大海人の妃がもう一人増えるということなのだ。
「どうした?」
大海人がからかうように言った。
「——やむを得ませぬ」
「ほう」
大海人はむしろ感心した。
女といえば、妬心で物を言う者が、ほとんどすべてといってもよい。それが※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野だけは、そんなものを越えて広い視野で物を見る。
大海人には、妃・夫人が何人もいるが、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野の聡明さに優る者はいない。胆力もある。
「わたしにとっては、若い娘が来るのはうれしいことだがな」
大海人の言葉に※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は唇を噛んだ。
「——皇子様、それはあまりにむごいお言葉かと」
鎌足は注意した。
「そうか」
大海人は別に悪いとも思わなかった。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が、あくまでも十市の縁談に固執するのは、なさぬ仲の娘を体《てい》よく追い払いたいという意図があると、あくまで疑っていたからだ。
「わたくしが十市を嫌っているとお思いでしょうか」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は言った。
大海人は図星を刺されて、返す言葉に詰まった。
「——そのようなことはありませぬ」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は大海人に詰め寄った。
「ない、とは?」
大海人は※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野を正視した。
「十市を嫌っているのではない、ということです」
「では、なぜ?」
「おわかりでしょう。これは、わが家の繁栄のために大切なことなのです」
「——」
「ぜひ、お進め下さるよう」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野も大海人を正視した。
「わかった」
大海人は、しぶしぶうなずいた。
「——だが、肝心の十市が、どう思うか」
「父上、わたしは参ります」
突然、声がした。
大海人も※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野も、鎌足も驚いて振り返った。
顔に決意をみなぎらせた少女が立っていた。
鎌足は中大兄も見事に説得した。
初めは反発した。
「どうして、大友に十市を迎えねばならぬのだ」
「これから先、どういうことが起こるかわかりませんが、いずれにせよ、かの君のお力はいずれ必要になると存じます」
鎌足は上目使いに言った。
「——何が起こると申す」
中大兄は冷やかに言った。
「御承知のことと存じます」
「唐が攻めて来て、この都も焼かれるとでも申すか」
「不吉な。左様なことはございますまい」
鎌足はおだやかに否定した。
「では、何だ」
「左様なことはございますまいが、やはり、身近に、いざという時に頼りになる方がおられるのは心強きもの」
「ふん、うまいことを申すものだ」
そう言われて、中大兄はその気になった。
何といっても、あの槍の妙技は捨て難い。
(それに、大友の妃に、かの者の娘が入れば、大友には手出しは出来まい)
中大兄はうなずいた。
「よろしゅうございましょうか」
「許す。——だが、かの者が承認するか?」
「これから、伝えて参りましょう。もちろん喜ばれるに違いありませぬ」
鎌足は、既に大海人の承知を得ていることは、伏せた。
それを言えば、中大兄はヘソを曲げてしまう。
「承知せねば、どうする?」
中大兄は、からかうように言った。
「一身に代えましても」
鎌足は一礼して退出した。
大友は二十一歳、十市は四つ年下である。大友は詩文をよくしたが、線の細い、どちらかというと弱々しげな印象のある貴公子であった。これに対して、十市は父と母譲りの、強い気性を持った少女であった。
鎌足は久し振りに肩の荷を下ろす心地がした。
この国の将来に対する深い悩みが消えたわけではなかったが——。