新帝天智天皇は即位するや、さらに強引なやり方で、新都建設を着々と進めていった。
大海人は黙ってそれを見ていた。
とりあえずは、帝のやることを見守ろうという気持ちだった。
諫言はいつでもできる。いや、それよりも、どうせ諫言をすれば帝の機嫌を損ねるのだから、いつか本当に必要な時まで、取っておこうという考えでもあった。
伊吹山から吹く冷たい風がおさまり、池の氷も溶けた頃、帝は即位以来初めての若菜摘みを行なった。
蒲生野《がもうの》というところがある。ここは、よい若菜や薬草が摘めるので名が知られていた。
帝は、大友や大海人以下の諸皇子、諸臣を従えて、行幸《みゆき》した。
あたり一面、春の花が咲きこぼれ、遠く山々が霞に隠れていた。
大海人は久しぶりに解放感を味わっていた。
空には薄い雲はあるが、よく晴れている。
空気もうまい。
大海人ばかりではなく、日頃宮中に閉じ込められがちの官女たちも、楽しそうにはしゃいでいた。
大友と十市の姿もある。
だが、大海人はあえて近付かなかった。
十市も父の方を見ようとはしない。
(娘も嫁に行けば婚家の者か——)
別に寂しくはなかった。
それよりも、十市が夫の大友とうまくいくことの方が大事である。
大海人は、しばらくあたりの景色を見て、ぼんやりとしていた。
(——?)
ふと、気が付くと、はるか向うで手を振っている者がいる。
(あれは誰だ)
大海人は目をこらした。
女のようであった。
しきりに手を振っている。
「額田か」
大海人はようやく気付いた。
自分を捨てて中大兄、いや帝に走った額田ではないか。
(女は勝手なものだ)
大海人は苦笑した。
しかし、額田は相変わらず、手をちぎれるように振っていた。さすがに、大海人も無視できずに、手を上げて儀礼的に手を振った。
それを見て、ようやく額田は手を振るのをやめた。
大海人は、ほっとして目をそらした。
ところが、それで終わらなかった。
舎人が文《ふみ》を届けてきた。
いぶかしげに見ると、そこには次のようにあった。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
あかねさす紫野《むらさきの》行き標野《しめの》行き
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
野守《のもり》は見ずや君が袖ふる
[#ここで字下げ終わり]
(そんな馬鹿な話があるか——)
大海人は怒るより驚いた。
ちぎれるほどに袖を振っていたのは額田の方ではないか。それなのに、これでは自分が野守の目もはばからずに、手を振っていたことになってしまう。
(女とは勝手なものだ)
再び苦笑した。
気が付くと、舎人がそのまま跪《ひざまず》いている。
「どうした?」
「はっ」
舎人は黙って筆と墨壺と紙を差し出した。
大海人は気付いた。
返歌を求めているのだ。
歌を贈ってくれば、返歌するのが礼儀である。
大海人は呆れたが、同時に悪戯心がわいた。
筆を取ると、さらさらと返歌をしたためた。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
紫の匂へる妹《いも》を憎くあらば
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
人妻ゆゑに我恋ひめやも
[#ここで字下げ終わり]
「持っていけ」
大海人が紙を渡すと、舎人はかしこまって、それを持ち帰った。
別に深い意味があってのことではなかった。
もちろん額田に対する愛情は、とうの昔に消え失せている。十市の母といえば母なのだが、十市に対する愛情はあっても、額田に対する愛情はない。
座興である。
だが、その座興がとんでもないことになった。
蒲生野での遊宴が終った後は、都に帰って湖を見下ろす高殿の上で酒盛りとなった。
初めはにぎやかな宴であった。
快い疲労が酒を進める。
あちこちで談笑が起こり、大海人もくつろいだ気分で酒を楽しんでいた。
ところが、一人だけ、おだやかならざる表情で、暗い酒を飲んでいる男がいた。
帝である。
帝は、人々のざわめきを、うるさそうにしていたが、盃をいくつか重ねるうちに、だんだん目が座ってきた。
その様子に真っ先に気付いたのが、大海人である。
(どうなされた)
その大海人の目と、帝の目が合った。
帝は盃を置いて立ち上がった。
(来るな)
大海人は直感した。
果たして帝はやってきた。
座っている大海人の前に、仁王立ちになった帝は叫んだ。
「あの歌はどういうことだ」
大海人は何のことかわからなかった。
「何がです」
「とぼけるな」
帝は言った。
「とぼけてなどおりません。わからないからお聞きしているのです」
大海人は盃を伏せて、律義に答えた。
「わからぬなら、教えてやる。——このことだ」
帝は懐から紙を取り出して、大海人に投げつけた。
大海人はそれを拾って広げてみた。
それは額田に返した歌であった。
「これが何か」
大海人は顔を上げた。
帝は本気で怒っていた。
「人妻ゆえに我恋いめやも、とは何事だ」
「ははは」
大海人はわざと声を出して笑って、
「それは歌です。座興というものではありませんか」
「何を申すか」
逆効果だった。
帝は愚弄されたと取ったのである。
「おまえのような下らぬ男はいない。人の妻を盗むとは男の風上にも置けぬやつだ」
大海人の顔色が変った。
人の妻を盗んだのはそちらではないか。それを棚に上げて人を非難するとは、何ということだろう。
だが、それは口には出せない。
ただ、大海人は帝を強くにらみ返した。
「こやつめ」
帝は自ら席に戻り、剣を取ってきた。
「何をなさいます」
「斬ってやる」
悲鳴があがった。
大海人は身をよじって、その場を逃れると、自衛のために槍を取った。
「おのれ、朕に反抗する気か」
反抗する気はなかった。
ただ身を守ろうとしただけだ。
帝は容赦なく斬りかかってきた。
大海人は槍の柄で受けた。
あしらうことは難しくない。
まして相手は酒に酔っている。
だが、狂気のような攻撃を受け続けるうちに、大海人は段々腹が立ってきた。
(どうして、ここまで我慢せねばならないのか)
いっそのこと、刺してしまおうか。
大海人は次の瞬間、帝の剣をはじき飛ばしていた。
帝の顔に恐怖が走った。