まず高句麗《こうくり》から使者が来た。
使者は高《こう》といったが、一国の使者にはふさわしくない貧相な、上目使いで人の顔色ばかりうかがうような男だった。献上された品物も、昔に比べて著しく見劣りするものだった。
「貧すれば鈍するとはこのことか」
大海人は愚痴を漏らした。
「何のことでございますか?」
妻の|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》が言った。
「——いや、高句麗のな」
「はい?」
「使者のことだ。進物もな」
「悪いのでございますか」
「ああ、一時に比べれば信じられぬ」
「どうして、そのようになったのでございましょう?」
「国が衰えたからよ」
「高句麗は、それほど悪いのでございますか」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は眉根にしわを寄せた。
「悪いな。間もなく滅ぶ」
「——まあ、お気の毒に」
「気の毒か」
大海人は苦笑して、
「対岸の火事ではない」
「えっ」
「もうすぐ高句麗は滅ぶだろう。そして、滅べば、唐は今度は矛先をわが国へ向けるかもしれぬ」
「——」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は息を呑んだ。
「そうなれば、今度はこのあたりが戦場になるかもしれぬ」
「おたわむれを」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はそう言ったが、顔は笑っていない。真顔である。
「そうならぬことを祈るばかりだ」
大海人も真顔で言った。
続いて新羅《しらぎ》からも使者が来た。
高句麗の使者とは違い、豪華な進物を持参した金東厳《きんとうげん》という男だった。
風采も立派で、態度も堂々としている。
これを迎えた帝も、意外なことに東厳を歓迎した。
新羅といえば目の色を変える帝が、なぜ東厳には笑顔を見せたか。
大海人は、初めは理解できなかった。
初め帝は、東厳に会おうとすらしなかった。新羅からの使者だからである。
しかし東厳は、上奏文を帝に提出した。その上奏文が帝の心を動かしたのである。
(どういうことか)
東厳を謁見した帝を、大海人は脇に立って見ていた。
「このたびは殊勝な心がけだな」
帝はまずそう言った。
「ははっ」
東厳は宮殿の床に額をすりつけて礼をした。
「前非を悔いておるとは、なかなかよい心がけだ」
「ひとえに、陛下の広き御心におすがり申すだけでございます」
「うむ」
帝は満足そうにうなずいた。
(そうか)
大海人は合点した。
新羅は、帝に対して、白村江《はくすきのえ》で敵対したことを詫びるという手に出たのだ。
(帝も、甘い)
大海人は、心の中で秘かに嘆いた。
「詫びる」などというのは勿論、本心ではない。
とりあえず日本とつなぎをつけるために、外交の端緒を開くために、下手《したて》に出たのだ。
新羅の本心は、日本の出方を探るにある。
高句麗が滅べば、唐はこれまで通り新羅と友好関係を保ち得ない。共通の敵を失った者同士は、これまで通り仲良くやっていくというわけにはいかないのである。
しかも、そもそも唐が新羅と結んだのは友好のためではない。唐は半島の敵国を倒すため、新羅は当面の敵国を倒すためであり、百済・高句麗が滅んだあとは、唐は新羅を滅ぼしたいのである。
一方、新羅は、その唐の思惑に対して、日本がどう動くか見極めたいのである。
(そのために、卑屈なことを言ってみせたのだ)
だが、帝はそのことに気付いているのだろうか。
「そなたには褒美がある」
帝は上機嫌で、舎人《とねり》に命じて目録を渡した。
東厳はありがたく押し戴いた。
「新羅王にも褒美を取らそう」
帝は目録を読み上げさせた。
なんと船一隻である。
(これは、だめだ)
大海人は落胆した。
褒美を取らす、などというのは、新羅の「謝罪」を真に受けている証拠である。
帝に進言する気は、とうに失せていた。
いや、いくら進言してもわかるはずがない。
(そもそも帝には外交は無理だ)
その感覚が、いかにもまずい。
外交は、時に頭を下げ、頭を下げられ、そのどちらにも偏せぬ冷静な目というものが必要なのだ。
帝は決して暗愚ではない。
だが、そこのところがどうしてもわからない。
特に、新羅に対する判断がおかしい。
それは新羅が嫌いだからである。気に食わないからだ。
それゆえに、冷静な目で見ることができない。向うが卑屈な態度に出てくれば、手放しで喜んでしまうのもそのためだ。
大海人は、儀式が終り帝が奥へ入ると、東厳に直接声をかけた。
「御使者殿、本日は、わが邸にお招きしたいのだが」
「これは皇太弟様」
東厳は丁重に頭を下げた。
「名誉なことでございます」
「お受け下さるか」
「もちろん、喜んで」
「お待ちしている」
大海人は急いで自邸に戻った。