都から少し離れた山中に、廃屋となった館がある。
そこに東厳は導かれた。いつの間にか、案内役の男が東厳らを先導していたのだ。
「よく参られた」
奥の部屋に燭台がともされ、総髪の男が東厳を迎えた。
大海人の父であった。
東厳は一礼した。
「お初にお目にかかる。金東厳でござる」
「——わしは国を捨てた名も無き者。こうして冠すらかぶっておらぬ。御無礼の儀は許されたい」
「何を申されます」
東厳は腰をおろして、
「無礼などとはとんでもない。沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様のお働きによって、わが国がいかに助けられているか、あらためて申し上げるまでもないはず」
「——いや、失敗《しくじり》ばかりよ。道行《どうぎよう》のことといい」
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]と呼ばれた男は答えた。
「道行は不運でしたな」
「言い訳めくかもしれぬが、わしは止めたのだ」
「存じております」
「神器一つ盗んだところで、今の帝はびくともせぬ」
「帝と申せば、本日拝謁の栄を賜わりました」
「どうであった?」
「——なかなかに、難しいことになりそうですな」
東厳はそう答えて、
「皇太弟様、いや、御子息様にもお会い致しました」
「——」
「なかなかの人物とお見受け致しました」
「左様か」
「冷汗をかきましたな。実は、今日は皇太弟様の御屋敷にお招き頂いたのですが——」
「いかがされた?」
「わが国の意図は見抜かれるわ、釘は刺されるわでござったが、帰りしなに、こう申されました。——あの御方によろしく、と」
東厳は言った。
男は表情を変えない。
「こうして、あなた様とわたくしが面談することもお見通しだったのでございましょうよ」
「——金殿、そんなことはどうでもよい。それより、われらはこれからどう動くべきかということだ」
照れ隠しか、少し語気を荒げて男は言った。
「いえ、これから先のことは、あの皇太弟様にも大きなかかわりがございます」
「というと?」
「これは、王の御意向にもございます」
「——まさか」
男は唾を呑み込んだ。
東厳はうなずいて、
「この国が、唐と手を結ばぬように、あらゆる手を尽くせよ、とのお言葉でございます」
「もし、今の帝が唐と結ぶと言い出したら」
「——それはおわかりのことと存じます」
「消せと言うのか」
「はい」
「そんなことをして、さらに新羅が憎まれることとなったら、何とする?」
「相次ぐ普請、労役、重税によって、民心は帝から離れつつあります。その有様をわたくしは九州から京へ入る途中に、つぶさに見て参りました。今の帝がいなくなれば、この国の民は喜びます」
「しかし、皇太弟が位を継ぐとは限らぬぞ。今の帝には、年若いが一人子の皇子がいる」
「そこのところをどうするか、あなた様のお働きにかかっているのでございます」
「王がそのように仰せられたか?」
「はい」
「それはいつ?」
「——まだ時期尚早でござりますな。まだ、唐は何の働きかけもしておりませぬゆえ」
「だが、ここ一、二年のうちには、唐は必ず日本と結ばんとするであろうな」
「仰せの通り、それゆえにわれらは、唐とこの国の動向をしかと見張らねばなりませぬ」
「もし、唐がこの国に新羅への出兵を求める使者を出したら?」
「その時は、すぐにお知らせ致しますゆえ、何とぞ善処されたい、とのことでございます」
「善処のう、とんでもない善処だ」
男は言った。
善処とは、要するに邪魔者は消せということなのだ。
「それが、王の御意向か」
「左様でございます」
「かしこまった」
男は一礼した。
東厳にではない、海の向うにいる新王に対してである。
「まだお若いはずだが、智略に長じた御方らしい」
「武人としても、大変な力量をお持ちです」
東厳が言葉を添えた。
「まずは目出たいことだ。暗主が出れば国は危うくなる」
「この国はいかがで?」
「そなたは会ったかな、内臣《うちつおみ》の中臣鎌足という男に」
「内臣殿は、このところ病いがちで、伏せっておるとうかがいましたが」
東厳は答えた。
謁見式の時も、鎌足は出席していなかった。
「この国が唐と結ばぬことは、新羅のためにもよいが、この国のためにもよい。そうではないか?」
「その通りですな。もし日本が唐と手を組み、わが国を滅ぼしたと致しましょう。すると、次は日本が滅ぼされることになる」
「そのことは、皇太弟も知っておる。もう一人、わかっているのが内臣殿だ」
「なるほど」
「先頃、帝と皇太弟が酒席で剣を抜き争ったことがあった。この時、見事仲裁したのも、内臣殿だった」
「そのようなことがございましたか」
「帝も、内臣殿の言うことなら聞く。それゆえ、内臣殿があと何年生きるかに、帝の命運が、いや日本という国の命運がかかっていると言っても、あながち言い過ぎではあるまい」
「なるほど」
「ところが、ままならぬのは世の中よ。内臣殿の病いは篤い」
「悪いのでございますか」
「命にかかわる病いだな。——あの男はな、少々の病いなら、それをおして出て来る。必ず、そなたにも会う」
「——」
「それが出て来ぬとは、よほど悪いのだろう」
「もし、内臣殿が亡くなられれば?」
「帝を抑える者が誰もいなくなるであろうな」
「皇太弟様は?」
「いや、皇太弟は今は帝と対立しておる。内臣殿がいなくなれば、その対立は深まるだけだ」
「すると、一触即発ということにも——」
「ああ、成りかねぬな」
「となると、内臣殿の寿命には、わが国の命運もかかっていることになるのでしょうか」
「そうかもしれぬ」
「いずれにせよ、ここ二、三年のうちに大乱が起こるかもしれませぬな。この国でも海の向うでも——」
東厳は言った。
(そんなことにならねばよいが)
と、男は思っている。しかし、そうなる可能性が大きいことも、また認めざるを得なかった。