憂さを晴らすためである。
唐との関係、国内の様々な混乱、民百姓の不平不満、帝は苛立ちで爆発しそうになることがある。
それを、唯一、晴らしてくれるのが狩りである。
帝は、このところ頻繁に狩りに出る。
気に入りの狩り場は、山科の野だ。
ここで弓矢を使って、猪や兎を獲《と》るのである。
しかし、帝は一人で狩りをするのは好まなかった。
できるだけ大勢参加するのがいい。
かといって、自分の獲物が一番でないと、駄々をこねる。大勢の参加者の中で、自分より良い獲物を取った者がいると、露骨に嫌味を言う。それがわかっているものだから、このところは、誰もが帝に遠慮して、目の前を大きな獲物が通り過ぎても見逃すようになっていた。
まさに、阿諛《あゆ》と追従の場になってしまっているのだ。
大海人は、この雰囲気を嫌っていた。
だが皇太弟ともあろうものが、帝の催す行事に常に欠席していては、痛くもない腹を探られることになる。
そこで、三度に一度はしぶしぶ出る。
今度は、久しぶりの大狩りだというので、大海人は愛馬に乗って参加した。
宮中の大官が揃って自慢の馬に乗り、従者や勢子《せこ》も含めると、二百人以上が出ていただろうか。
その中で、大海人は意外な人物を発見して、驚いて馬を寄せた。
「病いは癒《い》えたのか」
大海人は、その言葉を挨拶の代りにした。
鎌足である。
鎌足は馬上で礼をすると、顔を上げた。
それとわかるほど、青ざめている。
「——なんとか、馬には乗れるようになりましてな」
その声はかすれていた。
「だが、本復というには程遠かろう」
大海人は心配そうに言った。
「いえ、もうこれで大事ございません。いずれ快方に向かうものと存じます」
鎌足はそうは言ったが、本心ではなかった。
実は少々めまいがする。耳鳴りもする。
それに夏なのに、きょうは少し寒い。
病いの身には暑さより、寒さの方がこたえる。
(無理をして出て来たのだ)
大海人は鎌足の立場に同情した。
ひょっとしたら、鎌足はこの間のように自分と帝との間に深刻な対立が起こるのを恐れて、不測の事態を防ぐために、病いをおして出て来たのかもしれない。
「きょうは、よいお日和《ひより》でございますな」
鎌足は言った。
(よいものか)
大海人は、そう思った。
日はかげって、あたりは薄暗い。森の中は特にそうだ。大海人は、木々の間からの木漏れ日が大好きなのだが、きょうはそれもない。
体の調子が悪いのに、必死に場を盛り上げようとしている鎌足に、大海人は同情より怒りを覚えた。
(なぜだ。なぜ、あのような帝のために、そこまでせねばならぬ)
鎌足は、大海人の心中がわかったのか、力無く微笑んだ。
大海人が何か言おうとした時、突然、鬨《とき》の声が身近に聞こえた。
それから先は、あっという間のことだった。突然、草むらから猪が飛び出し、こちらへ突進して来た。
大海人はただちに避けたが、鎌足は一瞬遅れた。
その猪突におびえた馬が棹立ちとなり、鎌足は落馬して地面に叩きつけられた。
(いかん)
大海人はあわてて馬を降り、仰向けに倒れている鎌足を助け起こした。
鎌足は半ば意識を失っていた。血は流れていない。だが、腰の骨が折れているようだった。
そうだとすると、命にかかわる。
「医者はおらぬか、医者は」
大海人は叫んだ。
帝が馬で駆けつけて来た。
「どうしたのだ。落馬するとは、だらしがないぞ」
帝は笑っていた。
単なる落馬と思い込んでいるのだ。
(馬鹿、何だと思っている)
大海人は帝をにらみつけた。
事態の深刻さを悟った帝は、あわてて馬から降りた。
鎌足は、そのまま立つことが出来ない体になってしまった。