秋になると、もはや誰の目にも判るような死相が浮かんで見えた。
大海人は足繁く見舞いに行き、何度も元気付けたが、鎌足は体力のみならず気力も衰え果てたようだった。
「この国の未来は、皇子《みこ》様の双肩にかかっておりまする。何卒、よろしくお願い申し上げます」
鎌足は、半身を起こすこともならず、枕に頭をつけたまま言った。
「何を申すか、気の弱いことを」
大海人は励ました。
「いえ、このようなざまでは、もはや国のお役には立ちますまい」
「——」
「何卒、何卒、お願い申し上げます」
「だが、この国には帝がおわす」
「帝は頼りになりませぬ」
鎌足は、はっきりと言った。
大海人は思わず、あたりを見回した。
「滅多なことを言うものではない」
「いえ、死に行く者には、もう怖いものはありませぬ」
淡々とした口調で鎌足は、
「もう、お会い出来ぬかもしれませぬ。このことは、わたくしの遺言としてお聞き下され」
大海人は慰めの言葉を失った。
鎌足は遠くを見るような目をして、
「思えば、いろいろなことがございました」
「そうだな」
「大極殿で、蘇我入鹿めを討ち取った時は、御活躍でございました」
大海人は笑って、
「そなたもな」
「いえ、わたくしは——」
「隙あらば、蘇我に味方して、われらを討ち取ることも考えていたであろう」
「——」
「どうした、この際、本音を言ってしまえ」
「かないませぬな」
鎌足は弱々しく笑った。
「やはり、そうか」
「お許し下さいますか」
「許すも許さないもない。そなたの功績は比類がない」
「おそれ入ります」
「——では、わしは帰るぞ」
「お体には、ぜひともお気を付け下さい」
「それは、こちらの言うことだ」
大海人は目頭が熱くなった。
帝が見舞いに来たのは、病いがますます篤くなり、危篤状態に入ってからだった。
「汝の功績は、類いない。よって、大織冠《たいしよくかん》と藤原の姓を授ける」
帝はいきなり言った。
「かたじけのうございます」
鎌足はか細い声で言った。
「どうじゃ、満足であろう」
帝は得意そうに鼻をうごめかした。
(相変らずの御方じゃ)
鎌足は、あらためて帝の人物に失望した。
人の心というものが、全然わかっていない。確かに褒美もうれしいことだが、今の鎌足にとって本当に欲しいのは、この国の安定である。
帝が、広い視野と偏りのない心で、この国の将来を見据えることだ。それさえしっかりしてくれるなら、鎌足は何もいらないのである。
死に行く身に、冠も姓も無用のものだ。
「——陛下、わたくしはこの際、言上したき儀がございます。遺言と思し召され、お聞き頂けますでしょうか」
「——かまわぬぞ、申してみよ」
「この国の将来が案じられてなりませぬ」
鎌足は、残った体力のすべてをふりしぼって、言葉を出していた。
「唐のことか」
帝は、あらためてそれを言われるのは、不快だった。だが、鎌足が遺言だと言うので、それ以上文句はつけなかった。
「はい」
「何をせよ、と申すのだ」
「おわかりと存じます」
「新羅と仲よくせい、と申すか」
「左様でございます」
「しておるではないか」
帝は言った。
「それは違う」
鎌足は言った。
新羅が頭を下げてきた。それを受け入れたことを、帝は友好関係と思っている。だが、新羅は日本の出方を探るために、様子を見ているに過ぎない。
それを友好ととらえているのは、帝の目が曇っているのである。
「この国の行く末のためには、新羅と真の友好を結ぶしかありませぬ」
「今のままではいかぬ、と申すのか」
「はい、恐れながら」
「では、どうせよと申す」
「どうか、皇太弟様を新羅へ派遣なされませ」
「——」
「この儀、何卒、お聞き届け下さいませ。さもなくば、わたくしは死んでも死に切れないのでございます」
帝は黙って、病床の鎌足を見つめていた。
不快げな表情が、その顔に浮かんでいる。
「この儀、いかがでございましょうや」
「——ならぬ」
帝は言った。
鎌足は絶望的な目で、帝を見た。
そして目を閉じた。
そのまま、鎌足は一言も発することなく、三日後に五十六年の生涯を終えた。
さすがに帝もこれを悲しみ、廃朝九日間に及んだ。