もはや、帝は皇太弟たる大海人の立場を無視することにした。
太政大臣に、息子である大友《おおとも》皇子を任じ、側近の蘇我|赤兄《あかえ》を左大臣、中臣金《なかとみのかね》を右大臣にした。
特に、太政大臣はこれまでにない新設の官であった。
帝が後継者として、大友の地位を確固としたものにするため、新たに設けたのである。
大海人の政治的立場はまったく失われた。
あるのは、大友の正妃である十市《とおちの》皇女《ひめみこ》の父としての立場だけだ。
「いっそのこと、退隠するか」
大海人は、妻の|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》に言った。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、眉をひそめて、
「それは本心でございますか」
「本心だと言ったら?」
大海人は※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野を見た。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、露骨に蔑《さげす》みの色を見せて、
「逃げるのは嫌でございます」
「逃げるのではない、退くのだ。退くのも兵法のうちだぞ」
「そうでしょうか」
「そうだ。そなたのように、進むを知って退くのを知らぬのは、猪と同じだ。いずれ大けがをするか、敵に捕まる」
「敵とはどなたのことでしょう?」
「——」
大海人は絶句した。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は帝の娘なのである。
「もし、わたしが——」
それだけ言って、大海人は言葉を濁した。
だが、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は敏感に察した。
「もし、帝と対立することがあれば、どちらに味方するか、ということでございますか」
「——」
そうだ、とは大海人には言えなかった。
そんな日が来ないことをのみ念じていたからである。
「わたくしは、あなたに味方します」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はきっぱりと言った。
「よいのか」
大海人は、むしろ呆れたように、妻の顔を見返した。
「よいのです」
「わかった。もう言うな」
それは大海人にとって、最も心強い知らせだった。
大海人と※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は顔を見合わせた。
「いい妻を持ってよかったと思っている」
大海人が言ったその時だった。
帝からの使者が、大海人のもとへやって来た。
至急の召喚である。
「一体、何事だ」
大海人はとりあえず仕度をした。
「あなた、お気をつけになって、何か嫌な予感が致します」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が言った。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は勘の鋭い女である。
悪い予感は、はずれたことがない。
「わかった」
大海人邸から宮殿までは、わずかな距離である。
使者の蘇我臣安麻呂《そがのおみのやすまろ》が、門の外で待っていた。大海人を宮殿に導くためである。
「御苦労」
大海人は声をかけて、馬に乗ろうとした。
その時、安麻呂はすうっと近付き、小声で言った。
「帝の御前では、言葉にお気をつけ下され」
大海人は少し動きを止めたが、何も言葉を返さずに、馬に乗った。
(言葉に気をつけろ、とは——)
おおよその見当はついた。
宮殿に近付くと、今度はどこからともなく虫麻呂《むしまろ》が現われた。
「——なにやら、ただならぬ気配が致します」
「宮殿の中にか」
「はい」
馬の歩みに沿って、虫麻呂は、小走りについて来た。
「行かれぬ方がよいと存じます」
「いや、そうもなるまい」
大海人は真っ直ぐに前を見据えて言った。
「しかし、むざむざ火中に飛び込むこともございますまい」
「だが、行かねばまた新しい罠がかけられるまでのことよ」
「しかし——」
「いいから、このあたりに潜んでおれ」
大海人は唯一人で参内した。
帯びていた剣は、舎人《とねり》に取り上げられた。
帝の前に帯剣して出ることは出来ない。
帝は、いつもの場所ではなく、奥の間に一人で椅子に座っていた。
その顔には焦悴の色が濃い。
「どうなされました?」
大海人は驚いて言った。
「どうも体の具合がよくなくてな」
「それは、よくありませぬな」
そう言いながらも、大海人はあたりの気配をうかがっていた。
人数が伏せられているかもしれないのだ。
気配が感じられた。
「この際、そなたに位を譲り、朕《ちん》は身を退こうと思うが、そなたの存念はどうか」
「いえ、とんでもない」
大海人は跪《ひざまず》いて、頭を下げた。
「わたくしにそのような資格はありませぬ。御辞退申し上げます」
「なぜだ、こんなよい話はないではないか」
帝は驚いて言った。
(語るに落ちたな)
と、大海人は内心は思った。
餌をぶらさげれば、すぐに飛びつくと思い込んでいる。
「もし、どうしても位をお譲りになりたければ、大友皇子にお譲りになればよろしいのではございませぬか」
「いや、かの者はまだ若い」
「ならば、皇后《おおきさき》様にお譲りなさればよろしいではございませぬか」
大海人は間髪を入れずに言った。
「——」
「わたくしは、きょう限りに出家致します」
「出家——」
帝は目を見はった。
「はい。仏道修行に励みたく存じます。家の舎人、兵器はすべて朝廷に献上致します」
大海人は頭を下げ、そのまま逃げるようにして退出した。
帝は声をかけたが、大海人は無視した。
部屋の外へ出ると、大海人は舎人から自分の剣を受け取るやいなや、冠をはずして投げ捨てた。
そして、そのまま剣を抜いた。
舎人は顔を蒼白にして、後ずさりした。
「あわてるな」
大海人は笑い、もとどりを切った。
「わしはきょうより坊主になる。もはやこれは要らぬ」
と、大海人は剣を鞘におさめると、舎人に渡した。
「帝にお渡ししてくれ」
大海人はくるりと背を向けて、力強い足取りで宮殿を出た。
(矢が来るか)
それだけが気がかりであった。
帝が断固たる意志を示して、衛士《えじ》をして自分を狙わせれば、避けることはできないかもしれない。
だが、それは杞憂であった。
大海人は無事に宮殿を出ることが出来た。
邸に帰った大海人を見て、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は絶句した。
「ふふ、驚いたか」
「どうなさったのです」
「——帝が、わしを殺そうとした」
「それは——」
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は二の句が継げない。
「それゆえ、先手を取って坊主になってやったのだ」
「これから、どうなさいます」
「一切の身代を朝廷に献上する」
「まさか」
「いや、そうせぬと、こちらの身が危ない。——頭を剃るから手伝ってくれ」
大海人は奥に入ると、ただちに頭を剃り上げてしまった。
※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は夫の素早い決断に、ただ呆れていた。
ただ、頭を剃ったついでに髭《ひげ》も落としてしまったため、夫が幾歳《いくつ》か若返ったように見えたのが、せめてもの救いだった。
大海人一家は、その日の暮れぬうちに、邸を明け渡して吉野へ向かった。