使者は口上で述べた。
下手に書状に書いたりすれば、途中で奪われる恐れもある。
「沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様、それで御返答は?」
使者は新羅語でたずねた。
沙※[#「冫+食」、unicode98e1]様と呼ばれた男は、悲痛な顔をして、
「ただちに返答は出来ぬ」
「は?」
「だが、必ず、我が国にとってよきようにはからうとお伝えしてくれ」
「かしこまりました」
「それで、いつ来るかな?」
「遅くとも来年の冬までには参りましょう」
「あと一年か」
男は嘆息した。
「——苦労であった。下がってよい」
「ははっ」
使者が下がると、男は沙摩《さま》を呼んだ。
沙摩は道行《どうぎよう》亡き今、配下の中で最も手練《てだれ》である。
「何か、悪いお知らせでも?」
沙摩には予感があった。
「うむ」
男はうなずいて、
「長安に忍び入りし間者の報告によれば、大唐はついに、日本と和を結び、わが新羅を討つという方針を決めたそうだ」
沙摩は息を呑んだ。
それこそ、新羅人にとって、最も恐れていた事態である。
北の唐と南の日本が手を組めば、新羅を挟み撃ちできる。
まさに亡国の危機だ。
「どうなさいます」
「それを今、考えておるところだ」
男は腕を組んで、じっと考え込んでいた。
肝心なことは、日本が唐の申し入れに乗るか乗らぬか、ということである。
もし乗れば、本当に亡国の危機だ。
日本の兵は強い。
しかも、唐の侵攻に備えて、帝は軍備の拡張を続けている。
臨戦態勢だ。
すなわち、いつでも出兵出来るということでもある。
しかも、今の帝は、新羅に対して憎しみを抱き続けている。
唐が対新羅同盟を申し入れた場合、それに乗る公算が非常に大きい。
(どうすべきか)
男は考え続けた。
一つの手段として、今のうちに帝を暗殺してしまうことが考えられた。
だが、これは危険の大きい賭けだ。
もし、これが新羅の仕業だとわかったら、逆に日本の国論は打倒新羅で統一されてしまう。
帝の後継者は、必ず唐との同盟に踏み切るだろう。
「そちはどう思う」
男は沙摩にたずねた。
沙摩は迷わずに、
「——かの御方を暗殺すべしと考えます」
「いや、それはまだ早い」
男はあわてて言った。
「なぜでございましょう」
「かの帝が、唐との同盟に踏み切るかは、まだわからぬ」
「されど、唐よりの使者が来てからでは遅うございますぞ。手遅れになったら何と致します」
「——」
男は痛いところを突かれたと思った。
確かに、それが一番不安だ。
この国の出方を見ているうちに、唐の使者がやって来たら、帝はさっさと態度を決めてしまうかもしれぬ。
そうなってから暗殺しても、今度は絶対に新羅が疑われる。
だから、今のうちにやれ、というのが、沙摩の考えなのである。
(それはわかる。充分にわかる、が)
男は迷っていた。
他に手はないのか。
唐の使者を殺しても、その代りはいくらでもいる。
唐を今以上に刺激することもまずい。
とどのつまりは、沙摩の手段しかないのか。
(だが、今しばらくは様子が見たい)
と、男は思った。
先手を打つのもいいが、じっくり構えて待つことも戦略のうちである。
ふと脳裏に、息子の大海人のことが浮かんだ。
(今頃、何をしておるやら)
その大海人が、都を捨てて吉野に逃れたことは、まだ男の耳に入っていなかった。