使者として来たのは、武智麻呂である。
大海人はこの男とは、九州にいた頃、よく栗隈王の館で会っていた。
「武智麻呂か、久しいな」
大海人はまず、武智麻呂にそう声をかけた。
武智麻呂は膝をついて拝礼し、
「皇子様もお変りなく、何よりです」
「何を申すか」
大海人は笑って、頭を撫でた。その頭は剃髪した後、伸びほうだいに伸びていて、冠も被らず、いわば蓬髪《ほうはつ》といった趣《おもむき》であった。
「このわたしの頭を見よ」
大海人は笑って、
「息災どころではない。一度は死にかけたのだぞ」
「うかがっております」
武智麻呂も笑って、
「御無事で何より、と申し上げておきましょう」
「うん。そなたも堅固そうで何よりじゃ。ところで、急ぎの使者ということであったが?」
大海人は不審の目を向けた。
「はい。お人払いを願わしゅう存じます」
武智麻呂は言った。
大海人はうなずいて、
「では、外へ出よう」
と、自ら先に立って庭に出た。
仮住まいであるため、庭といっても外へ出れば、そのままそれが吉野山の一画なのであった。
桜の盛りはとうに過ぎており、今はむしろ秋の気配が漂っている。
その森の中に、大海人は武智麻呂を誘った。
「よい。そのまま話せ」
と、大海人は言った。
歩きながらである。
武智麻呂はうなずいて、
「実は、唐の軍船が数十隻、大宰府沖合に現われてございます」
「何と」
大海人は驚いて振り返った。
「そのような話、聞いておらぬぞ」
「はい。これはまだ大宰府の者のみが知ることにて、帝にもお知らせしておりません」
武智麻呂は意外なことを言った。
「帝にも?」
大海人は首を振って、
「なぜだ? この国の大事ではないか。なぜ、まず帝に知らせぬ」
「それが、わが主人のお考えなのでございます」
「栗隈王殿が、いったい何をお考えになったというのだ」
武智麻呂は近付いて、人目を憚《はばか》るように辺りを見た後、小声で、
「皇子様、このままではこの国は滅びます」
と、言った。
大海人も眉をひそめて、
「どういうことだ」
「はい」
武智麻呂はさらに大海人に近付いて、耳打ちするような形で言った。
「唐の使いは郭務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]と申す将軍にて、わが国に対して同盟を申し入れております」
「同盟とは、唐との同盟か」
「はい」
「ともに新羅を討とうというのだな」
「はい」
武智麻呂はうなずいた。
大海人は腕組みして立ち止まり、
「そのことを、なぜ帝にお知らせせぬ」
「わが主人が申しますには、もしこのことをお知らせすれば、帝はおそらく諸手を上げて、これに同意なさるのではないかと」
「——」
「おわかりでございましょう、皇子様。さすれば、この国はいずれ滅びます」
「遠交近攻というわけか」
「はい、そのとおりで」
「だが、帝がその話を受けると決まったわけでもあるまいに」
「はい。実は私はこれより、大宰府よりの正式の使者として、都を訪ねるつもりでございます」
「帝にお知らせするのか」
「はい。お知らせし、どのように処置いたすべきか、御返事をうかがってこいというのが、わが主人の命令でございます」
「帝より先にわしに知らせたのは、いったいどういうわけだ?」
「さて、そこでございます」
武智麻呂は、じっと大海人を見た。
しばらく、沈黙が二人の間を支配した。
「もし、帝が唐との同盟に応ぜられるならば、そなたはそのことをわたしに知らせてくれるな?」
「はい、お知らせいたします。それがわが主人の命にもございます」
「もし、帝が唐との同盟を受け入れると仰せられたら、どうするというのだ」
大海人は、鋭い目で武智麻呂をにらんだ。
武智麻呂はその場に平伏し、頭を大地に擦りつけ、
「何とぞ、お察しくださいますようにというのが、わが主人の口上にございます」
その真意は、もう大海人にはわかりすぎるほどわかっていた。
唐との同盟は、この国にとって亡国の道である。だとすれば、それを防ぐ手段をとる他はない。それがこの国に生まれた者としての務めだ。
しかし、それはとどのつまり、帝を討つということにもなるのである。
(それしかないのか)
大海人は血走った目で、辺りを見回した。