大海人の体全体から、力が抜けた。武智麻呂は、床に跪《ひざまず》いてうなだれていた。決断は下った。日本は、亡国への道を一歩歩みだそうとしている。
大海人は、長い間沈黙していた。その沈黙を破ったのは、武智麻呂であった。
「皇子《みこ》様、どうか御決断を」
「決断と申しても」
大海人は血相を変えて、武智麻呂を見た。
「そなたは、それが何を意味するかわかっているのか」
「十分にわかっておりまする」
「だが、仮にも兄だ。今すぐというわけにはいかん」
「しかし時が移りますと、何の意味もなくなることになりまする。わたくしは、これより大宰府に戻らねばなりませんが、帝の方針をお伝えするのにあと二十日というところでございましょうか」
「二十日……」
「さようでございます。あと二十日の間に手を打たねば、何もかも無駄となりまする」
大海人は沈黙した。武智麻呂は続けた。
「わが主栗隈王の申すところによりますと、この間、おそらく帝は一度や二度は狩りに出かけるものと思われまする。帝のお気に入りの狩り場は、御存じのとおり山科から宇治へかけての野。あの辺りには、わが主の元の領地、栗隈郷もございますゆえ、里人も皇子様の一挙に合力いたすと申しております」
「段取りは、すべてついているというわけか。あとは、わたしの決断を待つというのだな」
「さようにござりまする。なにとぞ、わが国と人民のために、お立ち上がりくださりますよう、伏してお願い申し上げます」
大海人は、空を見ていた。
雲一つない快晴であった。このような明るい光の中で、なぜ人は、人の命を闇に葬るということを決めなくてはいけないのだろうか。
昔から、決して好きではない兄であった。しかし、それを自分の手で殺すなどということになろうとは、夢にも思わなかったし、いくらいじめられたからといって、やはり殺すとなるとどうしても、心が怯《ひる》むのである。
(だが、やらねばなるまい)
もう猶予はできないのだ。帝の意志が唐の使いに伝わってしまえば、すべては終わってしまう。
「武智麻呂」
「はい」
「安んじて大宰府に戻れ。栗隈王殿に、わたしはそなたの意向に従おうと伝えてくれ」
武智麻呂は立ち上がった。
「あ、待て」
大海人は声をかけた。
「よいか。日ならずして、わが国に大乱が起こるかもしれぬ。その時は、なにとぞ大宰府の力をこの大海人めにお貸しくだされと、栗隈王殿に伝えてくれ」
「承知いたしました。申し遅れましたが、皇子様」
「なんだ」
「栗隈郷との連絡は、栗隈の里長《さとおさ》へ、酒麻呂《さかまろ》という者にお伝えください。委細、この者にお命じになれば、あとは準備万端整えられております」
「わかった」
大海人は、溜息とともに答えた。