栗隈郷は巨椋《おぐら》池という湖ほどもある大きな池のほとりにあり、池から掘削した水路が田畑に注ぐ、極めて豊かな地だった。
その巨椋池の水面に、まさに夕陽が没しようとしている時、虫麻呂は郷の入口にたどりついたのである。
里長の家は四方を柵で囲まれており、門には見張りがいた。
「里長に会いたい。取り次いでくれ」
見張りの若者に、虫麻呂は言った。
若者は、じろりと虫麻呂を見た。
「何者だ」
「大海人皇子様の使いだと言ってくれ。そう言えばわかるはずだ」
「ここで待て」
そう言って若者は中に入り、しばらくして戻ってきて虫麻呂を入れた。
家の中では、白|髭《ひげ》を垂らした老人が待っていた。
「皇子様のお使いと伺いましたが」
老人は顔を合わせるなり言った。
「そうだ、武智麻呂殿に聞いて来た」
武智麻呂の名を出した途端、老人の目から警戒の色が消えた。
「これは御無礼申し上げました」
と、老人は虫麻呂を上座に据えた。
「わたくしは、この里の主《あるじ》酒麻呂でございまする」
「——虫麻呂と申す」
「これは、わが孫の早足《はやたり》でございます」
と、老人は先程の若い男を紹介した。
早足の目からは、警戒の色が消えていなかった。
(わしが本当に皇子様の使いかどうか疑っている)
虫麻呂は察した。
「これこれ、この御方は、皇子様のお使いに相違ないぞ」
老人——酒麻呂がたしなめるように言った。
早足は答えなかった。
そうでしょうか、とでも言いたげな目をしている。
酒麻呂は呆れたように、
「取り越し苦労もいい加減にせい。もし、この御方が、朝廷《みかど》の回し者ならば、今頃この里は官軍に取り巻かれているところだ」
「その通りだな、早足」
虫麻呂は笑って、
「わしは武智麻呂殿の名を出した。すなわち武智麻呂とこの里のつながりを知っておるということだ。間者ならば、とうの昔に知らせておるよ」
その言葉に、早足もようやく警戒を解いた。
「それでよい。では、本題に入ろうか」
虫麻呂は膝を進めた。
「その前に、今度の一挙を成し遂げるため、信ずべき者どもを三人ほど加えたいのでございますが」
酒麻呂が許しを乞うた。
「よかろう」
虫麻呂は認めた。
早足がすぐに行き、三人の男を呼んできた。
男はいずれも、三十そこそこの屈強な青年で、
「風見《かざみ》」
「魚手《うおて》」
「湯石《ゆいし》」
と、それぞれ名乗った。
「この者共は、栗隈王様のために一命を捧げると誓っております」
酒麻呂が言った。
「ほう、これほどの若者共が」
虫麻呂は感心した。
「この里は、もとはろくに作物も取れぬ貧しいところでござった。それをあの御方が、大溝を掘ってくだされて豊かな村に変ったのでござる。われわれ里人は、あの御方こそ真の主《あるじ》と思うておりまする」
「なるほどな」
「あの御方の御命令とあらば、水火もいといませぬ」
「わかり申した」
「そこで、段取りでござるが——」
酒麻呂が早足に目くばせをした。
早足は早速、その場に図面を広げた。
それは巨椋池を中心にした、この辺りの地図だった。
「帝がよく狩りに来られるのは、この辺りでござる」
酒麻呂は池の北東側を指さした。
栗隈郷は池の南西側、つまり池を挟んで対称的な位置にある。
「こちらから事を起こし、一件が済み次第、その亡骸《なきがら》は舟で運び込むというのはいかがでしょう」
「それで、この辺りに埋めてしまうというのか」
虫麻呂は言った。
「仰せの如く——」
酒麻呂が答えた。
「それでよかろう。ただし——」
虫麻呂は気になっていたことがある。
「そもそも、帝をどのようにして討つかということだ」
狩りに出かけたところを討つといっても、帝は一人ではないのだ。
「そのことも、お任せあれ」
今度は早足が言った。
「どうする?」
「われらが勢子《せこ》となりまする」
早足の言葉に、他の三人もうなずいた。
狩りの獲物を追い立てるのが、勢子の役目である。
狩りに来た帝を、そのまま獲物にしてしまおうということになる。
(これは面白い)
虫麻呂は不敵にも笑った。
だが、これは一歩間違えば全員の死につながる。
もし発覚すれば一挙に、参画した者ばかりでなく、一族皆殺しにあうだろう。
だが、そんな心配をしている者は一人もいない。
少なくとも虫麻呂はそう感じた。
(これなら、うまくいく)
そうでなければならなかった。
失敗すれば、大海人皇子だけでなく、この国そのものが滅びるのである。