しかし、いくら何でもおかしいと思ったのは、勢子の「竹麻呂」が先程から走り詰めに走っていることだ。
随分と森の中を駆けているのに、獲物の白鹿はおろか他の勢子の姿も見えない。
「待て、とまれ」
帝は叫んだ。そして、自ら手綱を引きしぼって、馬をとめようとした。
驚いた馬は棹立ちになった。
帝は悲鳴を上げて、馬にしがみついた。
手綱をもぎ取られた形の早足は、急いで馬をなだめた。
「この無礼者めが」
帝が鞭でぴしりと早足の顔を打った。
早足の顔から血が流れた。
「お静まり下さい」
低いが、よく通る、毅然とした声がした。
「何者だ」
帝は、動揺さめやらぬ馬にしがみつくようにして、言った。
「わたくしです」
大海人が前に出た。
右手に槍を持ち、静かに帝を見つめていた。
その表情には、深い悲しみの色があった。
帝は、愕然として大海人を見た。
「何、何をしに参った」
大海人の頭に、ちらと別の考えが浮かんだ。
(もし、ここで日唐同盟のことを翻意させることが出来れば——)
だが、それは所詮意味のないことだと、大海人は気が付いた。
そう要求すれば帝はうなずくだろう。だが、それはこの場だけのことだ。
宮殿に戻れば、たちまち前言をひるがえし、大海人たちの追討を命じるだろう。
そうなっては、もはやこの国を救うことは出来ない。今を逃せば、二度と好機はないのだ。
「——この国の安泰のために、死んで頂く」
大海人はとうとうその言葉を吐いた。
「なんだと」
帝は怒りを露《あらわ》にして、
「気でも狂ったか、朕はこの国の王であるぞ」
「わかっている。だからこそ死んで頂くのだ」
その言葉と同時に、飛電のように鋭く早い槍が、帝の腹に突き刺さった。
「お、おのれ、逆徒め——」
帝は槍の柄を掴んで、苦痛のうめきをあげた。
大海人は、勇を振りしぼって、槍を左にねじり込んだ。帝はたまらず馬から落ちた。
どすんという大きな音がした。
帝は大地に叩きつけられていた。槍はその衝撃で腹から抜けていた。
気の遠くなるような激痛にもかかわらず、帝は傷口を押さえ、這うようにしてその場を逃れようとした。
その周りを、早足ら栗隈郷の若者四人、そして虫麻呂が囲んだ。
「助けてくれ、頼む」
行く手をさえぎる虫麻呂に、帝は取りすがった。
だが、虫麻呂は巌《いわお》の顔を変えない。
大海人は、その背後で槍をかまえた。
こうなったら、出来るだけ苦しませずにあの世に送ることが、慈悲というものである。
(成仏されよ)
大海人は、帝の項《うなじ》を一突きした。
ここは急所である。
帝は獣じみた叫び声を上げて硬直し、大海人が槍を引き抜くと、ゆっくりと仰向けに倒れた。
大海人は大地に静かに槍を置くと、前に進んで帝の死に顔を見た。
その目は、かっと見開かれ、その顔には激しい恐怖が刻まれていた。大海人は悲しげにその場に跪《ひざまず》くと、手をのばして帝の目を閉じさせた。
「——終わったな」
深い溜息と共に、大海人は目を閉じて、自ら手にかけた兄、いや本当は弟の冥福を祈った。