青衣の美女
東晋の孝武帝のとき、徐〓(じよばく)は中書侍郎になり、役所で宿直するようになったが、それからまもなく、下僚たちのあいだに、けしからぬ噂が伝えられた。徐〓が一人で寝ているはずの部屋から、夜更けになると女の声がきこえてくるというのである。
徐〓の身を案じた古い門下生の一人が、ある夜その部屋の窓の下にかくれて様子をうかがっていると、夜が更けてきたころ、果して女のすすり上げるような声が聞こえて来た。その声はまもなくやんだが、やがて空が月の光でほのかに明るくなった途端、窓のわずかな隙間から何かが飛び出して来て、庭さきに置いてある鉄の鼎(かなえ)の中へはいって行った。すぐ鼎の傍へ行って調べてみたが、鼎に植えてある菖蒲の根かたに大きな青い蝗(いなご)がいるほかには、何も見あたらなかった。門下生はその蝗をつまみあげ、左右の翅(はね)をむしり取って、また菖蒲の根かたにとまらせておいた。
翌日、その門下生は徐〓にありのままのことを話した。すると徐〓は、
「女は来る。どこの娘か知らぬが、この近くの者らしい。いずれ話をつけて側妻(そばめ)にしようと思っている」
といった。
ところが、その夜、女は来ず、徐〓の夢枕にあらわれて泣きながらいった。
「あなたの門下生のために往来の道を絶たれてしまいました。すぐお近くにいるのですけれど、山や河に隔てられているのも同然で、もうお会いすることができなくなってしまいました」
夜があけてから徐〓は門下生を呼んで、夢の話をし、
「まさかとは思うが、女はおまえが翅をむしり取ったという蝗の化身(けしん)だったのかもしれぬ」
といった。
「わたしが宿直をしはじめたころのことだ。月が明るい夜だった。寝つかれないので窓をあけて庭を見たら、青い衣裳の美女が立っていたのだ。そうだ、菖蒲の植えてある鼎の傍だった。手招きしたら部屋にはいって来たのだ。それから女は毎晩来るようになった。可愛い女で、わたしはすっかり溺れ込んでしまったのだが……」
門下生はその夜ひそかに庭へ出てみた。彼が翅をむしり取った大きな蝗は、彼がとまらせた菖蒲の根かたに、まだそのままとまっていた。彼はつまみあげて踏みつぶそうとしたが、いったん伸ばした手を引っ込めて、そのままにしておいた。
唐『続異記』