穎川(えいせん)に〓元佐(とうげんさ)という人がいた。呉(ご)に遊学していたが、山川(さんせん)をめぐり歩くことが好きで、景色のよいところがあると聞くと必ず出かけて行った。
ある日、長城(ちようじよう)で役人をしている旧知を訪ねて行き、酒を飲んで帰る途中、姑蘇(こそ)へ行くつもりだったのだが、どこで道をまちがえてしまったのか、けわしい山路に踏み込んでしまっていた。行けども行けども人家はなく、路の両側には蓬(よもぎ)が生い繁っているだけであった。やがて日が暮れかかってきたころ、ふと前方を見ると、燈火らしいあかりが見えた。どうやら人家のようであった。ほっとした気持で、そこまで行ってみると、粗末な小屋があって、中には二十歳(はたち)くらいの娘が一人、しょんぼりと坐っていた。〓元佐が戸口に立って声をかけると、娘がふり向いた。
「あやしい者ではありません」
と彼はいった、
「友人に会いに長城へ行った帰り、道をまちがえてしまったのです。日が暮れてしまって困っております。このまま夜道を行けば、ますます道を踏みちがえてしまいそうですし、わるい獣に襲われるかもしれませんし、心細くてなりません。もし一夜の宿をお貸しいただくことができれば、ありがたいのですが……」
「それはお困りでございましょう」
と娘はいった、
「でも、あいにく父が不在なので、どうしたらよいかわかりません。わたし一人のところへ、男の人をお泊めするのは……。それはそれとして、ごらんのような貧しい暮らしで、寝具もございませんので、とてもご満足いただけるようなことはできません。もしそれでもよろしければ……」
「夜露をしのがせていただくだけで結構なのです」
といって、さらにたのむと、娘は、
「それならどうぞおはいりください」
といった。
娘はいそいそと、小屋の地面を踏み均(な)らし、その上にやわらかい草を敷いて席をしつらえると、〓元佐をそこへ坐らせて、食事の用意をし、
「粗末なもので、お口にあわないかもしれませんが」
といった。〓元佐は腹をすかしていたので、みな食べてしまい、
「とてもおいしかった。満腹しました」
といった。食事がすむと、娘は寄り添ってきて、いっしょに寝た。〓元佐はたのしい思いをし、疲れでぐっすりと眠った。
翌朝、眼をさました〓元佐は、自分が田圃の真中に寝ていることに気づいた。あわてて起きあがると、腰のあたりに大きな枡(ます)ほどもある田螺(たにし)がころがっているのだった。昨夜食べたのは何だったのだろう、と思ったとき吐き気をもよおした。嘔吐したのは大量の泥土だった。すると昨夜たのしい思いをしたのは? 大きな田螺はただそこにころがっているだけであった。
〓元佐はそれ以来、山川を遊歴することをふっつりとやめ、仏道に帰依(きえ)するようになったという。
唐『集異記』