太原の王という書生が、朝早く散歩に出たところ、まだ人通りのない道を、包みをかかえた娘が一人で歩いて行くのを見かけた。纏足(てんそく)で、いかにも歩きにくそうな足どりなので、王はすぐ追いついてしまった。見れば十五、六歳の美人である。
「こんな時刻に、どうして一人で歩いているのです? 何かわけが……」
と声をかけると、女は、
「行きずりの女に、なぜそんなことをおたずねになるのです? わたしのなやみを解いてくださるわけでもないでしょうに」
といった。
「なんですか、そのなやみというのは。わたしにできることなら、お力になりますよ」
王がそういうと、女は顔をくもらせて、
「親がお金に困って、去年わたしを金持の家へお妾(めかけ)に売ったのです。ところが奥さんがひどい嫉妬(やきもち)やきで、朝から晩までわたしはどなられどおし、叩(たた)かれどおしで、もうどうにも辛抱ができなくなって逃げ出して来たのですけど……」
といって涙ぐんだ。
「どこへ逃げるつもりなのです? ご両親のところへ?」
「親のところへ行ったら、すぐつかまってしまいますわ。逃げて行くところがあれば、なにも、なやんだりするわけはないじゃありませんか」
「いかにもそうだ。あなたが逃げたことがわかったら、その家ではすぐ追手を出してさがしまわるでしょう。わたしの家へいらっしゃいませんか。かくまってあげましょう。家はすぐそこなのです」
王がそういうと、女はぱっと明るい顔になって、
「まあ、うれしい。まさかここで、あなたのような親切な方に出会えるなんて……。夢じゃないんでしょうね」
といった。
王は女の包みを持ち、女の足にあわせてゆっくり歩いて、奥庭にある書院へつれて行った。女はそこに誰もいないのを見て、
「ご家族はいらっしゃらないの?」
ときいた。
「ここは書院だから、家族の者は来ない。追手もまさかここにあなたがいるとは思うまい」
「そうね、ここなら安心だわ。もしわたしを不憫(ふびん)に思ってお世話してくださるのでしたら、内証にして、世間の人にはいわないでくださいね」
「いいとも、そうしよう」
と王がいうと、女は「うれしいわ」といい、むしろ女の方から誘うようにして二人はいっしょに寝た。女は王を驚喜させた。雨がやみ雲がおさまって王が女をほめると、女は「あなたのせいだわ」といった。
翌日、王は妻の陳(ちん)氏に女のことを話した。すると陳氏は、
「どこの家にいた人なのでしょう」
ときき返した。
「それはいわないのだ。金持の家だとしか」
「なぜいわないのでしょう。もし王族とか大官とかのお妾さんだったら、あなたが盗んだということになって大事(おおごと)になるかもしれません。折りを見てお出しになった方がいいのではないかしら」
陳氏はそういって出すようにすすめたが、王はきかなかった。
十日ほどたったとき、王は町で一人の道士に出会った。道士は王を見るとはっと驚いた様子で、
「何があったのですか」
ときいた。
「え? 別に何も」
と王が答えると、道士は、
「いや。あなたの躰(からだ)には邪気がまつわりついている。何もなかったはずはない」
と断言した。王が腹をたてて、
「何もないといっているのに、なぜそんなことをいうんです」
といい返すと、道士は頭を振りながら立ち去ったが、歩きながらつぶやく声が王の耳に聞こえてきた。
「すっかりまどわされている。命が旦夕(たんせき)に迫っているというのに、悟らぬ者がおるとは!」
王はちょっと女を疑ってみたが、ばかな、そんなはずがあるものか、と思い返した。たぶんあの道士のやつは、厄払いをしてやろうとか何とかいって金をせしめようとしているのだ——。そんなことを思いながら家に帰り、書院の方へまわって行くと、門が内側から閉っていて、はいれない。不審に思い、垣根を乗り越えてはいって行くと、部屋の入口も内側から閉っていた。いよいよ不審に思い、窓の隙間から中をのぞいて見ると、鋸(のこぎり)のような歯をむき出しにした青い顔の妖怪が、寝台の上に人間の皮らしいものを広げ、絵筆で人間の女の姿かたちを描いているのだった。やがて描きおわると、妖怪は着物をはたくようにしてその皮をはたき、すっぽりと躰にかぶった。するとたちまち妖怪はあの女になり変ってしまったのである。
王は恐怖のあまり足が萎(な)えてしまい、這(は)って垣根の外へ出た。門の外で一息ついて気をとりなおし、町へあの道士をさがしに行った。あちこちをたずねまわった末、ようやく城外の野原で見かけたので、かけ寄って行ってその前にひざまずき、叩頭(こうとう)して、
「お助けください!」
と叫んだ。すると道士は、
「よろしい。追い払ってあげよう。だが、あいつも可哀そうなやつでな、わしはあいつの命まで奪ってしまうことは可哀そうで出来ぬのだよ」
といい、持っていた払子(ほつす)を王に渡して、
「これを寝室の戸に掛けておくがよい。そうすればあいつを追い払うことができるよ」
というなり、さっさと立ち去って行った。
王は払子を抱くようにして家に帰ったが、書院へはいる勇気はない。そこでおもやの寝室で寝ることにして、その戸口に払子を掛けておいた。
初更(しよこう)(八時)ごろ、門の外に物音がきこえた。王は自分でのぞく勇気がないので、妻の陳氏に、
「あの女かもしれぬ。そっと見てくれ」
とたのんだ。陳氏は戸を少しあけて、隙間からのぞき、
「やっぱり、あの女です」
といい、戸をぴったりと閉めた。やがて女の足音がきこえてきて、戸の前で立ちどまった。同時に歯ぎしりする音が鋭く聞こえて来た。つづいて、
「道士め、わたしをはいらせまいというのか」
という声が聞こえ、立ち去って行く足音がした。ところが、王がほっとしたのも束(つか)の間で、また足音が聞こえて来た。
「負けるものか。払子でわたしをおどしているつもりだろうが、もう、こわくはないぞ。せっかく口に入れたものを、おめおめと吐き出すようなわたしじゃないことを見せてくれよう」
そう叫ぶなり、女は払子を引きちぎって戸に投げつけた。同時に女は戸を蹴破って寝室の中へ飛び込んで来て、王の寝台にあがり、王があっと叫ぶよりも早く、王の腹を引き裂いて心臓をつかみ出し、立ちすくんでいる陳氏には眼もくれずに出て行ってしまった。
女が出て行ってから陳氏は我に返り、声を張りあげて、
「誰か来て!」
と叫んだ。下女がはいって来て蝋燭の光で照らして見ると、王はすでに死んでいた。腹から流れ出た血であたり一面は血の海になっている。陳氏は驚きと悲しみで、息もつまり、茫然としてただ涙を流しているだけであった。
やがて夜があけて来た。陳氏は王の弟の二郎(じろう)に知らせて、
「とにかく道士を呼んで来てください。もしかしたら、何とかしてくれるかもしれないから」
とたのんだ。
二郎につれられて来た道士は、部屋の中を見まわし、
「わしはあいつを不憫に思っていたのに、あいつめ、よくもこんなひどいことをしやがったな」
といい、しばらく四方をかぎまわるようにしてから、
「うん、あいつめ、まだこの近くにひそんでいやがる」
とつぶやき、陳氏に向って、
「奥さん、南の棟はどなたの住まいですか」
ときいた。
「わたしが住んでおりますが……」
と二郎がいうと、道士は、
「あいつはいま、あなたのところにおりますぞ」
といった。
「わたしのところに? 兄を殺した女がですか」
「そうです。誰か見知らぬ者があなたのところに来たはずですが……」
「さあ、わたしは朝早く青帝廟(せいていびよう)へお詣りに行っていて、帰ってきたところを嫂(あね)に呼びとめられてこのことを知ったわけで、まだ家へは帰っていないのです。すぐ帰って聞いてみましょう」
二郎はそういって走り出て行ったが、しばらくするともどって来て、
「おりました。今朝、わたしが家を出たあと、一人の老婆がやって来て、手伝いに雇ってほしいといったので、家内が引きとめておいたということです。まだ家におります」
といった。すると道士は、
「そうでしょう。そいつが妖怪なんです」
といい、おもやと南棟とのあいだの中庭へ行って、木剣を握りしめながら、
「妖怪め、わしの払子を返せ!」
と大声で呼ばわった。すると老婆が家の中で顔色を変えておろおろしだし、よろけながら中庭へ出て来た。道士が木剣で打つと、老婆はあっけなく倒れ、同時に人間の皮がガバッと剥がれて青い顔の妖怪に変り、地面をころげまわりながら豚のような声をあげて啼いた。道士が木剣でその首を打つと、妖怪の躰はたちまち濃い煙に変り、まるいかたまりになって地面を這いまわった。道士はそれを見つめながら袋から瓢箪を取り出し、口の栓(せん)を抜いて煙の中に置いた。すると、煙はするするとその口に吸い込まれていって、たちまちなくなってしまった。道士は瓢箪の口にまた栓をして、袋の中へ入れた。
人間の皮は地面に広がっているままだった。見れば、顔も手足も、胴も陰部も、すべて人間にそっくりであった。道士はそれを拾い上げて巻いた。巻くときには掛軸を巻くような音がした。道士はそれも袋の中へ入れると、
「これでもう、妖怪はあらわれません。では、これで……」
といって立ち去ろうとした。
「お待ちください」
陳氏が道士の袖にすがりつき、その前にうずくまって叩頭しながら、
「夫を生き返らせてくださいませ。何とでもして生き返らせてくださいませ。わたしの命にかえてでも生き返らせてくださいませ。道士さまにはそれがおできになるはずでございます。お願い申し上げます。どうかおききとどけくださいませ」
と泣いて訴えた。
道士はしばらく黙って考えているようだったが、やがて口を開いた。
「わしはまだまだ術が浅くて、死人を生き返らせることはできませんのじゃ。だが、ご主人がやつめに殺されなさったのは、わしの払子(ほつす)がやつめを防ぎとめることができなかったからともいえよう。それは奥さん、あなたが戸を薄目にあけたからでもあるのですぞ。そんなことはいまさらいったところで、どうにもならぬことだがな。とにかくわしには死人を生き返らせることはできぬのじゃ。じゃが、あなたのまごころにはわしも心を動かされた。わしのかわりに、よい人を教えてあげましょう。その人なら死人を生き返らせることもできるはずじゃ。行ってたのんでみなさるがよい。きっと何とかしてくれるでしょう」
「それは、どこのどういうお方なのでございますか」
「町に、きたない乞食がいる。どぶ泥の中で寝ていることがあるが、見かけたことはありませんかな。その乞食をたずねて行って、心からたのんでみなさるがよい。たとえその乞食がどんなことをいっても、どんなことをしても、奥さんをはずかしめるようなことがあっても、奥さん、怒ったり逆らったりしてはいけませんぞ」
二郎がその乞食のことは知っているといった。
陳氏は道士を門まで見送ると、すぐ二郎といっしょに町へ、その乞食に会いに出かけた。乞食は町で、何やらわけのわからない歌をうたったり、わあわあわめきちらしたりして、人々の顰蹙(ひんしゆく)を買っていた。泥のこびりついた顔で、洟汁(はなじる)を三尺も垂らしているので、誰も近寄らない。しかし陳氏はその乞食の前に膝をつき、膝で歩いて、
「お願い申し上げます」
といいながら進んで行った。すると乞食は笑っていった。
「おお、別嬪(べつぴん)の奥さん、どうしたんだね、おまえさんはこのおれに惚(ほ)れたんかね。いっしょに寝たいのかね」
陳氏が殺された夫を生き返らせてほしいといって、事の次第を話すと、乞食はいよいよ笑って、
「ばかなことをいいなさるな。亭主のかわりなんかいくらでもいる。生き返らせてどうするんだね。その亭主はほかの者より立派な持ちものを持っていて、それが恋しくてならんとでもいうのかね」
陳氏が首を振り、涙を流し、頭を地面に叩きつけてなおもたのむと、それまでは笑っていた乞食が急に怒りだして、
「いいかげんにしろ。死んだ人間を生き返らせるなんて、そんなことのできるやつなんかこの世にいるはずがなかろう。おまえはおれを乞食だと思って、ばかにしているのか。おれは閻魔(えんま)大王じゃない。ばかにするな」
と、どなりつけ、杖で陳氏を打った。陳氏は痛さをこらえて、杖を避けようともせず、なおも「お願いいたします、お願いいたします」とたのみつづける。人々が集まってきて、垣のようにとり巻いた。その中で乞食は、掌の上にいっぱいに痰を吐き、ひざまずいている陳氏の口さきへ掌を突き出して、
「これを嘗(な)めろ!」
といった。陳氏は吐き気がこみあがってくるのを我慢しながら、道士がいったことを思い返し、その痰を嘗めはじめた。痰をのどの中へ呑み込むと、それは何かのかたまりのようになり、つるつるとすべって行って胸のあたりでとまった。乞食は声をたてて笑い、
「別嬪さん、よほどおれが好きとみえるな。ここでいっしょに寝てやろうか。さあ、寝たけりゃここで裸になりな」
というのだった。さすがに陳氏がためらっていると、乞食は「ふん」と鼻を鳴らし、
「あばよ」
といって歩きだした。陳氏があわてて追って行くと、乞食はふり返りもせずにさっさと廟の中へはいって行った。陳氏は追いすがってなおもたのもうとしたが、どこへ行ってしまったのか見あたらない。廟の中をあちこちさがしまわったが、とうとう見つからず、陳氏は自らを恥じたり道士を怨んだりしながら二郎につれられて家に帰った。
きたない乞食の前にひれ伏して、その痰まで食べてしまった。いったい、わたしは何というあさましい、はずかしいことをしてしまったのだろう。あそこまであさましさ、はずかしさをさらした以上、乞食が裸になれといったとき、人垣の中で裸になったらよかったのかもしれない……。もう死んでしまおう、と陳氏は思った。
だが、その前にしなければならないことがある。夫の死骸を放りだしたままで死ぬわけにはいかない。
陳氏はまたそう思い返し、夫の死骸の血をぬぐって棺におさめようとした。下女たちは立ちすくんだまま、離れて見守っているだけで、手伝おうともしない。陳氏は妖怪が引きずり出した腸(はらわた)を手で夫の腹の中へおさめながら、わあわあと声をあげて泣いた。あまり泣いたためにむせ返り、吐き気をもよおした。それでも泣きつづけていると、胸から何かかたまったものがつきあげて来て、顔をそむける暇もなく、腸(はらわた)をおさめたばかりの夫の死骸の腹の上へ吐き出してしまった。
見ればそれは人間の心臓だった。それは夫の死骸の腹の裂け目へぬるぬるとはいって行った。そして腹の中でぴくぴくと動きだしたのである。動きだすと同時に、煙のように熱気がそこから立ちのぼった。陳氏は急いで両手で腹の皮をとじあわせ、そして力いっぱい腹を抱きかかえた。少しでも力をゆるめると、熱気が皮をとじあわせた隙間からもれ出るのだった。そこで下女に絹切れを持って来させ、手伝わせて腹にそれを巻きつけた。
もしかしたら生き返るかもしれない、と陳氏は思った。そう思いながら手で死骸を撫でつづけていると、だんだん温かくなって来た。夜中になると死骸は息をしだし、そして夜あけごろになると、とうとう生き返ったのである。
そのとき陳氏ははじめて、乞食が掌の上に吐いた痰が、夫を生き返らせた心臓だったのだということに気づいた。
生き返った王は、
「うつらうつら夢を見ていたよ。だが、どうしたのかな、何だか胸がちくちく痛むんだ」
といった。陳氏がそっと腹に巻いた絹切れをほどいて腹の裂けたところを見ると、何のあともなく、ただ銅銭くらいの大きさの瘡蓋(かさぶた)ができているだけだった。
四、五日すると、その瘡蓋も消えてしまった。
清『聊斎志異』