陳(ちん)郡の謝鯤(しやこん)は、病気のため官職をやめて豫章(よしよう)に引きこもっていたが、やがてすっかり元気になったので、気晴らしの旅に出て、ある夜、一軒の空家(あきや)にとまった。
その家には妖怪が出て、しばしば人を殺したことがあると言い伝えられていたが、謝鯤は平気で眠っていた。と、明け方近くなって、窓の外に黄衣を着た男があらわれて呼んだ。
「おい、幼輿(ようよ)、戸をあけてくれ」
幼輿というのは謝鯤の字(あざな)である。こいつが妖怪か、と彼は思ったが、おそれずに言い返した。
「戸をあけるのは面倒だ。用があるなら窓から手を出せ」
すると相手は窓から長い腕を突っ込んできたので、謝鯤はその腕をつかみ、力まかせにぐいぐいと引きずり込もうとした。外では引き込まれまいとして、逆に謝鯤を引きずり出そうと力をこめているようだった。互いに引っぱりあいをしているうちに、相手の腕がちぎれて謝鯤の手に残った。妖怪はそのまま立ち去ったらしい。夜が明けてから見ると、その腕は鹿の前脚だった。
窓の外には点々と血のあとがついていた。謝鯤がそのあとをたどって行くと、果して一頭の大きな鹿が森の中に倒れていた。
それ以来、その家には再び妖怪はあらわれなかった。
六朝『捜神記』